mixiユーザー(id:3687887)

2018年10月30日20:10

142 view

2624日目からの「つづき)・・・混乱・・・

 2624日目からの「つづき)
 ↓↑
 3)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 3)ジーボルトとも・・・シーボルト=置維波斯徳利
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 2)長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年〜1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 1852〜1908
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 〜
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで
 医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 シーボルト=置維波斯徳利
 ↓↑
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルンの
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行し
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保・大槻玄沢・宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルトと
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 シーボルトの
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬の
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルトは
 日本関係の書物を次々に発表
 日本学の権威としてヨーロッパで重要視
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 次男の
 4)ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)との間に生まれた
 楠本イネは産科医として知られた
 ↓↑
 ヨーロッパに
 3)シーボルトによって紹介された
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 としてライデンで1832年〜54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833〜50)
 『日本植物誌』(1835〜70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 3)シーボルトが
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内は
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 3)父シーボルト
 の名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
フォト

フォト

ーーーーー
  楠本 お稲
 宇和島藩主
 伊達宗城から厚遇され
 宗城から
 「失本イネ」という名の改名を指示され
 「楠本伊篤(くすもと いとく)」と改名
 1871年(明治四年)
 異母弟
 シーボルト兄弟
 2)兄アレクサンダー
 4)弟ハインリヒ
 の支援で東京は築地に開業し
 福澤諭吉の口添えにより
 宮内省御用掛となり
 金100円を下賜され
 明治天皇の女官
 葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)
 医学技術は評価され
 異母弟ハインリヒ
 とその妻
 岩本はな
 の第一子の助産も彼女が担当(その子は夭折)
 1875年(明治八年)
 医術開業試験制度始まる
 女性であったイネには受験資格がなかった
 晧台寺墓所を守るため
 東京の医院を閉鎖し
 長崎に帰郷
 1884年(明治十七年)
 医術開業試験の門戸が女性にも解放
 57歳になっていたため産婆として開業
 62歳の時、娘
 高子(唯・ただ)一家と同居のために
 長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業
 後は
 弟ハインリヒの世話となり余生
 1903年(明治三十六年)
 鰻と西瓜の食べ合わせで
 食中毒(医学的根拠はない)で死去
 享年77
 イネは生涯独身
 石井宗謙との間に儲けた娘
 「唯(タダ)」がいた
ーーーーー
 Siebold=シーボルト
      施福多
      施勃児篤
       勃児杜
     矢以勃児杜
      失勃児篤
     失乙勃児篤
     我爾徳児
 ↓↑   
 おたき・おたくさ
 紫陽花=あじさい=阿字斉
 烏頭紫陽花
  渦紫陽花
 「紫陽花」 という漢字を
 「あじさい」の漢字として引用し始めたのは
 源順(みなもとしたごう)
 ↓↑
 シーボルト=ズィーボルト=ジーボルト
 Siebold, Alexander Georg Gustav von
 1846.8.16. ライデン
 〜
 1911.1.23. テグリー
 ドイツの外交官
 P.シーボルトの長子
 安政六 (1859) 年
 父の再訪日に同伴して来日
 三瀬周三
 らについて日本語を修得し
 のち
 駐日イギリス公使館員 (通訳官)
 明治三 (1870) 年以後
 日本政府の外務省
 ローマ
 ベルリンの日本公使館に奉職
 明治初期から中期にかけ
 日本の外交交渉に貢献
 1910年在職
 40年にあたり
 勲二等瑞宝章を受けた
 ↓↑ ↓
 明治期のお雇い外国人
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男
 オランダ・ライデンに生まれる
 安政六(1859)年
 父に連れられて来日
 日本語を習い
 文久二(1862)年〜明治三(1870)年まで
 在日イギリス公使館勤務
 1866年
 パリ万国博覧会参加の
 徳川昭武一行に付いて訪欧
 一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
 3年民部省雇
   外債切り替え交渉のため
   特例弁務使
   上野景範に従ってロンドンへ出張
 6年太政官正院翻訳局に配属
   ウィーン万国博覧会副総裁
   佐野常民に随行
 8年大蔵省雇
 11年外務省雇
   パリ万国博覧会副総裁
   松方正義に随行
   万博後、在独公使館付
 15年条約改正予議会
 19,20年条約改正会議で東京へ呼ばれ
     通訳官を務め
     会議無期延期直後
     了解工作のため内命を受け
     ヨーロッパ各国を歴訪
     後は終生ヨーロッパにあって
     新聞論調の本省への報告などに従事
     1894年
     日英条約改正交渉のため
     特命全権公使
     青木周蔵に付いてロンドンへ出張
     日清戦争,日露戦争の際は
     世論工作に従事
     1910年勲1等瑞宝章受章
 ↓↑  ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Carl Theodor Ernst von
 1804.2.16. ウュルツブルク
 〜
 1885.4.7. ミュンヘン
 ドイツの動物学者
 P.F.vonシーボルトの伯父
 ↓↑
 シーボルト
 Siebold, Philipp Franz von
 1796.2.17. ウュルツブルク
 1866.10.18. ミュンヘン
 ドイツの医者
 文政六 (1823) 年
 長崎オランダ商館の医師として来日
 翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開く
 伊東玄朴・高野長英・黒川良安
 ら数十名の門人に
 西洋医学
 一般科学を教授
 商館長の江戸参府に随行 (26)
 日本に関する研究資料を集めた
 シーボルト事件
 文政十二 (1829) 年
 日本追放
 安政六 (1859) 年
 オランダ商事会社員として再来日
 幕府の外交にも参与
 文久二 (62) 年帰国
 『ニッポン』 Nippon (32〜54)
 『日本植物誌』 Flora Japonica (35〜70)
 『日本動物誌』 Fauna Japonica (33〜50)
 など刊行
 ↓↑
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
 1796年
 ドイツ生まれ
 1823年
 長崎・出島のオランダ商館付の
 医師兼自然科学調査官として来日
 私塾を開設し西洋医学を伝え
 オランダ政府の命で
 動植物や鉱物、民族資料を集めた
 1828年
 積み荷に幕府禁制の地図が発見され
 国外追放処分となった(シーボルト事件)
 1859年
 2度目の来日
 外交顧問などを務め3年滞在
 再び資料収集をして帰国
 1866年、70歳で病死
 (2016-10-11 朝日新聞 夕刊 文化芸能)
 ↓↑
 ジーボルトとも・・・
 1823年長崎出島に着任
 日本研究のかたわら日本人患者を診療し
 1824年
 長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾
 高野長英
 高良斎(こうりょうさい)
 伊東玄朴
 戸塚静海
 美馬順三
 二宮敬作
 らの門人を指導
 1826年
 商館長の江戸参府に同行
 1828年シーボルト事件
 翌年追放
 日蘭通商条約締結後の
 1859年
 長子アレクサンダー〔1846-1911〕
 を伴って再来日
 《日本》《日本動物誌》
 《日本植物誌》《江戸参府紀行》
 などの著書
 長崎滞在中の
 其扇(そのぎ・お滝)
 との間に
 娘〈いね・楠本いね)を儲ける
 アレクサンダーは
 英国公使館などの通訳を経
 1870年〜1910年
 日本外務省に勤めた
 ↓↑
 4)シーボルト
 Siebold, Heinrich Philipp von
 ドイツ人外交官
 1852年7月21日 ドイツのボッパルトで誕生
 〜
 1908年8月11日
 3)P.F.シーボルトの次男
 明治二年(1869)
 2)兄A.G.シーボルトにしたがい来日
 オーストリア-ハンガリー帝国
 公使館の代理公使
 横浜領事代理
 上海総領事
 などをつとめた
 勤務のかたわら
 考古学の研究にあたり
 「考古説略」をあらわした
 1908年8月11日死去。56歳
 ↓↑
 4)シーボルト
 幕末明治期の
 オーストリア=ハンガリー帝国の外交官
 ライン河畔ボッパルトで誕生
 3)医学者フィリップの次男
 父の影響で
 東洋の文化と歴史に関心を抱き
 駐日イギリス公使館
 通訳官の
 2)兄アレキサンダーが一時帰国した際
 その秘書に日本語を学び
 1869年
 兄と一緒に日本に発つ
 明治五(1872)年一月
 日本代表部の臨時通訳練習生
 10月
 ウィーン万国博覧会の
 日本万博委員会の連絡係
 六年一月
 博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
 同年三月
 名誉通訳官に昇任
 翌年6月再来日
 明治十六年2月
 領事館官房書記官
 後
 代理公使
 横浜代理領事
 1等官房書記官
 上海総領事代理
 などを歴任
 同29年7月10日離日
 『日本考古学覚書』(1879)
 『アイヌ民族研究』(1881)
 を書く
ーーーーー
 3)シーボルト
 ドイツ人の医師,生物学者
 バイエルンの
 ビュルツブルクの医師の家に生まれる
 ビュルツブルク大学で
 医学,植物学,動物学,地理学
 などを学び
 1820年学位を得る
 1822年
 オランダ領東インド会社付の医官
 1823年
 ジャワに赴任
 日本に任官
 文政六(1823)年八月
 長崎出島に入った
 はじめ商館の内部で
 市内の
 吉雄幸載の私塾などで
 診療と講義
 翌年長崎奉行から許され
 郊外の鳴滝に学舎を造った
 学生の宿舎や診療室
 薬草園まで備え
 鳴滝塾とし
 週1回出張
 実地の診療や医学上の臨床講義
 様々な分野の学問の講義を行い
 小関三英・高野長英・伊東玄朴・美馬順三
 二宮敬作らの蘭学者を育てた
 文政九年
 オランダ商館長の江戸参府に随行し
 1カ月余り江戸に滞在
 高橋景保・大槻玄沢・宇田川榕庵
 ら江戸の蘭学者とも親交
 長崎へ帰ったシーボルトと
 高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで
 間宮が疑惑を持ったのをきっかけに
 同11年
 任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が
 嵐によって戻された際に
 荷物が調べられ
 国禁違反が発覚
 高橋が
 3)シーボルトの
 『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』
 と
 オランダ領のアジア地図
 などと引き換えに
 伊能忠敬の
 『日本沿海測量図』の
 コピーなどをシーボルトに渡していた
 ほかにも
 葵の紋服などを
 シーボルトが持ち出そうとしていた
 高橋は裁判の途中に獄中で死亡
 ↓↑
 シーボルトは国外追放で
 同12年12月に日本を去った
 ヨーロッパに戻ったシーボルトは
 日本関係の書物を次々に発表
 ヨーロッパで
 日本学の権威となり
 オランダ国王を動かし
 幕府に開国を勧める親書を起草
 この親書は
 弘化一(1844)年
 幕府に伝えられたが
 幕府はこれを拒否
 日本が開国した際に
 ヨーロッパ諸国と結ぶべき
 条約の私案を起草して
 オランダ政府に伝え
 この条約案は
 嘉永五(1852)年
 クルティウスに託され
 幕府の手に届けさせた
 ↓↑
 開国後
 クルティウスは
 シーボルトに対する
 追放の解除を幕府に要請
 安政五(1858)年
 日蘭修好条約の締結
 同六年シーボルトは念願の再来日
 文久二(1862)年
 日本を去り
 ミュンヘンで亡くなった
 ↓↑
 再来日で帯同していた長男の
 アレクサンダーは日本に留まり
 イギリス公使館通訳
 明治三(1870)年以降は政府のお雇い
 外交政策などの相談役
 ↓↑
 次男の
 ハインリヒも
 同2年に来日
 外交官として長年日本に滞在
 楠本其扇(お滝)
 の娘
 楠本イネ(稲)は
 異母姉で
 産科医
 ↓↑
 3)シーボルトが
 ヨーロッパに紹介した
 日本の風物は
 『日本=日本誌』
 『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)
  についての記述集成』
 として
 ライデンで・・・ライデン=雷電・来電・頼伝・来伝?
 1832年〜54年までに刊行
 『日本動物誌』(1833〜50)
 『日本植物誌』(1835〜70)
 ↓↑
 日本にピアノが伝来したのは
 シーボルトが
 1823年(文政六年)に持参した
 1826年(文政九年)
 シーボルトが江戸に来たとき
 最上徳内は
 自分の蝦夷地測量図を貸し
 アイヌ語辞典編纂を援助し
 シーボルトはその著《日本》で
 徳内の業績をたたえた
 ↓↑
 「お稲」は
 父シーボルトの名に漢字を当て
 「失本(しいもと)イネ」とも名乗った
 ↓↑
 楠本唯=高子
 は
 楠本イネの娘
 シーボルトの孫娘
 結婚後の改姓により
 三瀬高子(みせ たかこ)
 山脇高子(やまわき たかこ)=山脇たか
 ↓↑
 1865年
 二宮敬作の縁により
 宇和島藩の奥女中奉公
 1866年(慶応二年)
 三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚
 1877年(明治10年)
 夫・三瀬諸淵に先立たれ
 後、
 異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ
 医師・片桐重明に
 船中で強姦され
 妊娠、息子の
 周三(後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)
 を生む
 医業の道を断念
 その直後に
 医師・山脇泰助と再婚し
 一男ニ女を生む
 が、
 結婚7年目に夫、山脇泰助にも先立たれた・・・
 その後
 叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話で
 東京で母のイネと共に暮らし
 芸事の教授をして生計を立てた・・・
 ↓↑
 シーボルトの弟子の
 二宮敬作の甥
 三瀬諸淵(みせ もろぶち)・・・楠本唯=高子の最初の夫
 ↓↑  天保十年七月一日
     (1839年8月9日)
      〜
     明治十年
     (1877年10月19日)
     幕末・明治期の医師
     初名・周三
     幼名は弁次郎
     字は修夫
     伊予国
     大洲出身・・・大洲市(おおずし)
     愛媛県の南予地方に位置
     「伊予の小京都」
     肱川の流域にある
     大洲城を中心に発展した旧城下町
     大洲市八幡神社の神主
     常磐井家の私塾
    「古学堂」にて国学を学んだ
     安政五年(1858年)
     大洲に一時帰郷し
     長崎から持ち帰った
     発電機と電信機を持って
     古学堂に旧師、常磐井厳矛を訪ね
     大洲藩の許可を受け
     古学堂から肱川の河川敷まで電線を引き
    「電信」の実験し
     古学堂2階〜肱川向かいの
     矢六谷の水亭まで約980メートルの間に
     銅線を架設し、打電に成功
     シーボルトの長男の
     アレクサンダー・フォン・シーボルト
     の家庭教師役を務めながら、自身は医学を学ぶ
     文久二年(1862年)
     諸淵がシーボルトのために
     日本の歴史書の翻訳が発覚、投獄
     1864年に出獄
 ↓↑  明治十年(1877年)胃腸カタルにより39歳で死去
 地元
 大洲で
 日本初の電信実験に成功
 語学も村田蔵六(大村益次郎)から
 学び
 外交で通訳・翻訳
 シーボルトの娘
 イネの娘
 高子と結婚した・・・
ーーーーー
 ・・・人間関係、こんがらがる・・・

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年10月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031