一昨日から昨日まで、友達に誘われて福島県に行って来ました。
宇都宮市から会津に行くのには、高速道路を使うのが普通ですが、
他に鬼怒川温泉や川治温泉を経て山王峠で県境を越える、
国道121号を通る、江戸時代には会津西街道と呼ばれるルートがあります。
以前、このルートは通った事がありますが、今回久しぶりに行きました。
鬼怒川温泉辺りから綺麗な紅葉を見る事が出来ました。
一昨日から昨日まで2日間に亘って紅葉を満喫する事が出来ました。
最初に向かったのが、南会津町の前沢集落です。
ここは、集落のほとんどが曲家の地区で、ほとんどが茅葺屋根です。
曲家とは、馬を飼うために母屋と馬屋が直角に曲がっている家で、
岩手県の南部地域などで見られる家屋の形態ですが、
福島県内にも存在し、特に前沢地区は、1907年(明治40年)の大火で、
集落のほとんどの建物を焼失したため、一斉に再建され、
現在でも当時の家屋に人々が生活しているのが特徴で、
文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
内部を観られるのは1棟だけでしたが、それでも十分雰囲気が分かりました。
土間に続く板の間には囲炉裏があって火がありました。
その煙が建物の中を漂い、昔の生活を偲ぶことが出来ました。
狭い集落の中を歩くと長閑な感じがしました。
前沢集落から、只見町に向かいましたが、
ほとんど道路に信号機がありませんでした。
先ほど調べてみたら、栃木県の五十里ダムの近くの信号機の後、
南会津町田島の国道352号との分岐までの26kmほど信号機がなく、
国道352号に入ると舘岩村までの35km間に信号機がありません。
さらに、只見町までの46kmほどの間に信号機がないようです。
つまり110kmほどの間で信号機があるのは3か所と言う感じでした。
只見町は、JR只見線が通っていますが、2011年7月の豪雨で
現在も会津川口〜只見駅間の運転を見合わせていて、
全線復旧は2021年になるとの事です。
只見町は、何度か日記に書いて来た、越後長岡の河井継之助の終焉の場所です。
河井は、長岡城の攻防戦で、流れ弾が膝に当たって重傷を負いました。
河井は八十里峠を越えて会津に向かおうとしますが、
只見村で動けなくなってしまい、そこで亡くなりました。
終焉を迎えた家が残されていると聞いていましたので、行ってみたいと思っていました。
立派な記念館があり、その建物の中に当時の家を切断して入れたような感じで、
終焉の部屋や控えの間、療養していた部屋などが残されていました。
とにかく、思っていた以上の立派な記念館でした。
館内の資料で、河井の最後の12日間を述べた文章がありました。
最後の様子がよく分かりました。
記念館の裏のお寺に、河井を荼毘に付した時の細骨を集めた墓がありました。
今年は7月に越後長岡の河井継之助資料館にも行きましたので、
改めて河井を身近に感じる事が出来ました。
只見町から、次の目的地柳津町に向かいました。
お昼を過ぎたので、どこかで何か食べたいと思ったのですが、
食事を出来る店が沿道にありません。
コンビニも、ほとんどありませんでした。
道の駅の案内板をみつけ、道の駅かねやまに入ろうとしたら、
駐車場が一杯で車を停めるのに時間が掛かりそうなので、パスしました。
次の道の駅、尾瀬街道みしま宿もやはり車を停めるのに時間が掛かりそうでした。
結局、目的地の会津柳津の道の駅に着いた午後2時までお昼を食べられませんでした。
その代わり、柳津名物のソースかつ丼を食べられました。
お腹が空いていた事もありましたが、本当に美味しかったです^^
その道の駅の敷地内に、行きたかった斎藤清美術館があります。
斎藤清をご存知ない方もいらっしゃるかも知れませんが、
会津坂下町出身の版画家で、柳津町のアトリエで活動をしていたようです。
僕は、会津地方の茅葺屋根の家に雪が積もったのを描いた版画が好きです。
一昨日は、特別展をやっていたので、斎藤清の版画は少なかったのですが、
会津の版画だけではなく、京都を題材にした版画にも力を入れていたのを知りました。
その美術館から、歩いていけるとの事なので、福満虚空蔵尊圓蔵寺に行きました。
陸奥南部〜常陸にかけて
多くの寺院を建立したとされる徳一が創建したとされる寺院です。
紅葉の名所との事でしたが、余り時間もなく、
紅葉の綺麗な場所には行けなかったのかも知れません。
この日は、柳津町から裏磐梯に行き、そこで泊まりました。
若干疲れましたが、温泉に入り酒を飲んで楽しく過ごしました。
長くなりますので、昨日の事は明日書きます。
今日の分の写真をアップしましたので、宜しければご覧下さい。
http://photozou.jp/photo/album/2882708
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