■渋谷のハロウィン騒動、人間は仮装すると暴走しやすくなる? 「抑圧されたものを開放している様に見える」と識者意見
(キャリコネ - 10月29日 13:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=5352430
そういえば、一部の、という構成体が、その一部の暴走を止めたという話も聞いたことがないんですが、それは所詮 暴走する暴力には無力である という、自浄作用のなさを必死こいてアピールしていると解釈していいんでしょうかねえ。
なんかなさけねえな、と常々思っていたんですがねえ。
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「ジャーナリストの金子稚子氏は「なんか抑制されたものを開放しているように見える」と日頃溜め込んだストレスを、ここぞとばかりに発散していると語った」とあるけど、実際は理由付けのために溜め込んでいるようにしかうつらない。
暴走することに確固たる理由も持てず、合理化をしたいための群れなければ何もできない人間の愚かな末路でしかない。
ほんとうに確固たる意思をもって暴力を起動する人間は、こんな愚劣な群衆心理に託つけた振る舞いはしない。
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このような暴力に正当化を求めた輩の行き先は、理由作りになる。
「暴力を暴走させる振る舞い」を実行するために、「暴走する」本人だけがなると思い込んでいる、「幼児の抱くような鬱憤を抑制されている認識」を抱くことが必要になる。
その認識は「鬱憤を蓄積するように振舞う」ことで得られるわけであるから、自ら鬱憤を蓄積する様な振る舞いを続けるようになる。
これをマッチポンプと呼ばずしてなんと呼ぶのか。
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「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』 )
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968938703&owner_id=65933753&full=1
群衆が軽トラ横転させる 渋谷
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5351282
別のソースみてたら、どうやら数人がかりで内側から持ち上げたみたいですね。もうわかりきっててやってることなんじゃないのかな。
おそらく、今後立件された際の人間の第一声は、みんなやっているから、になるだろう。
だがそれは、自分の意思でものも考えない愚劣な振る舞いをする人間であることの発露と気づくのは、いったいいつになるのだろうか。
そういえば、2006年1月に、強姦で逮捕されていた当時京大生(後に除籍処分となった)白井淳平、池口亮、木戸晶裕は「いずれも容疑を否認してい」た。
彼らには犯意がなかったと主張し、その場にいた三人全員でやった以上、「みんな」がやったことだから、咎められるはずはないという、オルテガのいうところの『大衆社会』固有の推論に基づいての判断を下していた。
彼らは学生たちの狭い社会の外側に「刑法」という上位規定によって規制されている社会が拡がっていることを(知識としては知っていても)、実感したことがなかった。
だが、裁判ではそれが全否定されたのであるが。
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この手の他人に行動意思を依存する人間の行動基準は「模倣」となる。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット、寺田和夫訳『大衆の反逆』 中央公論新社(中公クラシックス)、2002年)
他人に行動意思を依存する人間の行動則は、「他人と同じであるか、どうか」のみとなる。
つまり、何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
たしかに、上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのは、たしかに経験則としては有効となる。
しかし、『大衆』、つまり「他人に行動意思を依存する人間」がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するから、となる。
ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族史的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
「他人に行動意思を依存する人間」の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうる。
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この前の花火のあとのごみ捨ても、だいたい似たような理屈になる。
行楽地で空き缶を捨てようときょろきょろしている観光客がいる。
どこにも空き缶が捨ててないと、しかたなくマイカーに持ち帰る。
一つでも空き缶があると、「やれやれ」とうれしげにそこに並べる。
そういう人間「ばかり」だから、空き缶一つをトリガーにして、あっというまにゴミの山ができあがる。
何もないところにゴミを捨てる根性はない。
でも、一つでもゴミが落ちていれば、ほっとして捨てる。
公共の場所にゴミをすてることがシステムを「汚す」ネガティヴな行為であることはわかっている。
けれども、自分より先にそれをした誰かがいた場合には、その誰かに「トラブルの起源」を先送りすることができる。
「私が来るより前から『こんなふう』だったんです。私はトラブルの起源ではありません」
という言い訳が通るとわかると、どんなひどいことでもできる。
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