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2018年10月05日22:47

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ほどほどに腐っていけばいいんじゃあないですか

“まじめ”って損じゃない? まじめをやめたい漫画が投げかける疑問に共感の声
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=5318267


ま、他人に害を及ぼさない程度に勝手に不真面目になって腐っていてくださいとしかいいようがないけどなあ。
すれてるね、とか言われるようになったら逆に良さそうだけど。

http://b.hatena.ne.jp/entry/gendai.ismedia.jp/articles/-/51079
くさらずにまともにいてください。
腐って八つ当たりされても他人はなんもしちゃくれねえ。

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人間評価の数理学 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962787234&owner_id=65933753&full=1


http://news.livedoor.com/lite/article_detail/13651960/
「不良だけど根はいい奴」という風潮は一体何なの? ろくでなしがちょっと善行を積んだだけで許されていいのか

2017年9月23日 11時0分 キャリコネニュース
について、ちょっと解説を書いておきます。

序文を見ただけで「コイツ松本ミゾレか」って思わせるのもなかなかいないけど、たぶんこち亀の

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を見たからじゃないかとは思ったんですけども。

実際には、似たようなシンプルなはなしが、平成23年度版東京都版道徳副読本(東京書籍刊行)にありました。実は道徳副読本は国会図書館に所蔵していない(本のようで本の扱いをされない)という悲しい事実が、パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマー新書、2016.11)で明らかにされました。
民間施設なら、東京都江東区の教科書図書館で「月曜、火曜、水曜」のみ開いていて高校生以下は原則入館禁止のようです。マジか。

で、本題に戻りましょう。
中学三年生用の東京書籍の道徳副読本に掲載された、『ぼくにもこんな「よいところ」がある』という生徒の作文を読んでみましょう。

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「まじめに見える子どもも問題を起こすことがあり危険です」とテレビでだれかがいった。
親や先生の期待どおりに動く子どもは危ないのだそうだ。
少々ふまじめで明るい子どものほうがよいのだという。
そういう子どもがよいのなら、そうでないマジメなぼくはどうすればよいのだろう。
(パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプリマー新書、2016.11, P69)

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まじめに見える子も問題を起こすのは事実です。
ふまじめに見える子はもっとそれ以上に問題を起こします。
まじめな子はほとんどの場合、たいした問題を起こしませんので、ふまじめな子のほうがよほど危険です。
「まじめに見える子どもも問題を起こすことがあり危険です」といったコメンテイターは、カタギも平気で狙う工藤会の構成員よりマジメなサラリーマンもたまに問題を起こすから、工藤会の構成員よりサラリーマンのほうが危険だとおっしゃりたいことになります。なにいってんだかな。

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けっこうよく耳にする、「若いころ不良だったヤツが将来出世する」という法則。
これも少数の珍しい例だけを取りあげたウソです。
現実には、若いころからまじめだった人のほうが圧倒的に出世してます。
若いころから暴行や傷害で少年院に何度も入ってたような本物の不良は、普通の企業ではなかなか雇ってもらえません(注)。
それが現実です。
ふまじめな子はふまじめな生きかたを強いられる確率が高いのです。
だいたい、本当にふまじめな子のほうが将来成功するのなら、学校で道徳を教えないほうがいいってことになるじゃないですか。
オトナって、矛盾してますよね。
まじめな小中学生のみんな、安心してください。
きみたちはまちがってません。
ただ、ふまじめなことやまちがったことを全否定はしないでください。
そういうことをちょっとおもしろがるこころの余裕は、持っていてほしいものです。

(Ibid, pp.70-71)

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注:マエ(前科)と信用の崩し方(再録) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962619184&owner_id=65933753&full=1

そんなに「すばらしい」こととは10年を経ても思っていません。「逮捕歴」(脛に傷のある人間)があるけれど仕事はばりばりできる人間と、それほど有能ではないけれど温厚篤実な人間とどちらといっしょに仕事をしたいか、と聞かれたら、私は後者を選ぶ。  

法治社会において「逮捕歴がある」ということを、私はある種の社会的能力の欠如と考えるからですね。「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということを知らないで違法行為を行って逮捕されてしまった人間は「バカ」であり、「バカ」であり、かつ「仕事ができる」人間の在ることを私は信じない。  

「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということが分かっていてなおそれをする人間は、「ルールを軽視する
タイプの人間」であり、そのような人間がトップに立って「ばりばり仕事をした」場合、当該企業は、産業廃棄物の不法投棄とか品質管理の手抜きとかいう「不法行為」のチャンスに際して、そうでない場合よりも「ルールを軽視する」可能性が高い。そして、そのような不法行為は結果的には大きな社会的制裁を企業にもたらすので、「ルールを軽視するタイプの人間」は長期的に見れば「企業に有害な人間」、つまり「仕事のできない人間」である確率が高い。  

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さて、なぜ「ふつうの人間AがBということをして評価の上がりが微妙なのにダメ人間CがBをしたらダダ上がりになる」かの理由をあの原理で考えてみましょう。

努力の数理学
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962785273&owner_id=65933753&full=1

まあ、6時で毎日、なんてのはざらにあって塾も、なんてのもざらにあるのは個人的には意識があるんですが、 
「試合に負けると、この指導者は「負けるのは努力と練習時間が足りないからだ」と生徒たちに言い、練習は厳しくなるばかりです。」 
これを未だにいっているやつがいるとはな、と呆れはしました。この指導者は、パフォーマンスを「努力と成果の相関」というシンプルな枠組みで捉えているからでしょう。この指導者は、A倍の時間勉強すれば成績もA倍になるというきわめてシンプルな一次方程式で、努力と成果の相関をとらえようとしています。 

残念ながら、そうではありません。 

時間がふえると成績が上がるのは成績がきわめて低いときだけです(例えば、塾のチラシで「偏差値が・・・」というのは大体がおばかから平均くらいになった事例しかみたことがありません)。 

そのあとは時間と成績は相関しません。 

ある閾値を超えて練習するとむしろ成績は下がります。 

成績が上がるより前に体を壊して寝込んでしまいます。

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つまり、元々マイナス値なやつは上がる余地があって上がるけど、元々あるやつはその余地が少ない、と。今のポケモンの経験値みたいだな。

サラリーマンと工藤会の例でも考えてみれば、所詮は下がり幅の問題です。
高みに立っていたショーン・マクアードル川上の件でも元がプラスだったから大きく突き落とされただけで、同じことを元から値の下がってるやつがやっても下げ幅は小さいのと同じことです。
わかりやすい例は、初回のCHAGE&ASKAのASKAが覚醒剤をキメたときの話でしょうかね。これが何回もキメた清水健太郎がまたやりました、とかなら「ああ、あいつだからな」くらいにしかなりません。
ゴマキの弟が今度何の犯罪をしようが「ゴマキの弟だから」「姉の面汚しだから」にしかならないのと似ています。
つまり、男坂の角度が違うわけです。

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(今の話は、これを逆にして考えてみよう。)

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男坂の下る際に、「いつもはまともなんだからいいじゃん」みたいに(ライターの松本ミゾレが)考えているのかわからないですけど、それって

「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」

「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」

(ドストエフスキー『罪と罰』)

がやりたいだけですよね。
ただ単に理由ほしさにやっただけの腐った人間の発言になり下がるんです。
殺人したやつが急に昔はどうこうだっただから減刑をー、って言い出すのと同じなんです。

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焼きそば屋さんの屋台をやるとしましょう。 
焼きそばは作っただけ売れるとしましょう。 
コストは100円です。 
いい商売ですね。 
でも、これだと、買う側が無限にいないと成立してくれないんですよね。 
現実では、購買者に限界があります。 
いくら焼きそば男爵と呼ばれる私でも焼きそばは3人前が限度です。 

可変入力がある点を過ぎると、入力の増加が出力の増加に結びつかなくなっていきます。 
逆に生産するのにかかるコストが増大していくのです。 

つまり、「善行はある点を過ぎると、善行の増加が人間としての良好な評価に一次関数的に結びつかなくなっていき、良好な評価へのベクトルに向けるためのコストが増大していく」

ことになり、

「悪行はある点を過ぎると、悪行の増加が人間としての悪辣な評価に一次関数的に結びつかなくなっていき、悪辣な評価へのベクトルに向けるためのコストが増大していく」

ことになります(短期限界費用曲線が増大することを示している)。

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おちゃらけミクロ経済学: 限界費用逓増の法則と微分 その5
http://academicentertainment1.blogspot.jp/2012/11/5.html?m=1
食パンを評価に置き換えてみよう。

もちろん、全ての入力が比例して増えるなら、その結果は一定であるか、または増大します。 

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みたいになって、

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逆もこんな図になる。

まあ、マイナスへの向き幅が緩やかになって、これ以上マイナスに振れる為のコストのほうが重くなってきたやつがプラスに手をちょっとかけてから、さあて向き幅がよくなったぞとまたやる、みたいなことをよくするのが岡村靖幸だったりするわけだけど(よく薬物で捕まるけど)、たぶんそんな調子な気がするなあ。
所詮は関数の傾きなだけ、それがわかれば、やるべきことは「そういうことをしないで」おいてください、ということになりますかね。
落ちてから取り返すのは、関数的には確かに跳ね返りは楽かもしれないけど、「社会は関数的には動かない」ことにあります。

朱に染まれば的要素で似たようなやつは誉めてくれるやつがいるかもしれないけど、モヒカン族はそうもいきません。
SNSは「朱に染まれば」的要素と「落ち込んでるやつにきついことをいっちゃいけません」的要素が強いけど、言わなきゃいけないことは言うけどなあ。

「ヘタクソ」なやつに限って群れて傷の舐め合いのようにコメントを無駄に費やしている、とかいうのは悪口になるけど、現に自分にはそういう世界に見えるからそう言っている。
自分に都合の悪いことは言われたくないと思うからそんな振る舞いをするのかもしれないけど、あんまりそれで得るものはないんじゃないかな、という常日頃思っている愚痴コミで解説を書きました。
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