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2018年10月01日21:19

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「この世は1つの舞台なのだ」

「ダメな人」と決めつける前にできること
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=77&from=diary&id=5312828

 この話題で最近読んだ本を思いだしました。ひろさちやさんの『日本仏教の創造者たち』という本です。その中で親鸞について書かれたコーナーにあった話です。

<以下引用>
P80
 そう,親鸞によると,この世は一つの舞台なのだ。
 その舞台に,提婆達多や阿闍世,韋提希,釈迦が登場する。筋書きは,韋提希のために釈迦をして浄土の説法をさせたいのだ。そのためには,悪役が必要である。提婆達多や阿闍世が出てきて,韋提希を絶望の状況に追い込まねばならぬ。そうでないと,韋提希の救済を求める叫びが,心の底からのほとばしりとならないのである。韋提希が心底から叫びを発しないと,釈迦の説法は白々しいものとなる。
<以上引用>

 悪役も必要だという論旨です。
 提婆達多(だいばだった)は仏教教団のリーダーとなろうとして釈迦の殺害を企てた”悪人”です。阿闍世(あじゃせ)はマガダ国の皇子で,父親を殺して王位を簒奪したやっぱり”悪人”です。母親が韋提希(いだいけ)で,父王を助けようとして阿闍世に監禁されてしまいます。そこで韋提希は釈迦に救いを求め,釈迦は韋提希に極楽浄土の教えを説きました。
 
<以下引用>
P79
 提婆達多や阿闍世は,とんでもない悪人である——。それが,いうなれば常識である。そりゃ,そうでしょうよ。提婆達多は釈迦を殺そうとし,阿闍世太子は父親を殺してしまったのだ。彼らが悪人でなくて,誰が悪人であろうか。
 だが,親鸞はそう考えない。
 親鸞はこう考える。
 かりに,提婆達多や阿闍世がいなかったとしよう。彼らがいわゆる善人で,世の中が平穏無事であったとしよう。そうすると,阿闍世による父親殺害もなかったし,母親の韋提希夫人の嘆きもなかった。ということは,韋提希のために釈迦が極楽浄土の救いを説く必要もなかったわけだ。
 そうなりますね。
 だとすると,われわれが極楽浄土の救いを教えていただけたのも,提婆達多や阿闍世の悪事のおかげなのだ!
 だから,親鸞は,提婆達多や阿闍世を,「権化の仁」——かりに姿を現した人たちと呼んでいる。釈迦をして韋提希に浄土の説法をさせるために,そのようなチャンスをつくるのに必要な登場人物と見ているのだ。
 そう,親鸞によると,この世は一つの舞台なのだ。
<以上引用>

 「ダメな人(と思われている人)」は優秀な人と同じくらい必要な人かもしれません。そもそも「同じくらい」と比べるのがおかしいのでしょうね。
 わたしは親鸞も,ひろさちやさんも好きです。
 
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