真実が全て明らかになるものなら、私はとっくに淘汰されているだろう。
忘却というものがないのなら、私はとうに圧殺されているだろう。
経験科学も含めて、科学は私に憐れみの一瞥もしないだろう。
フッサールやハイデガー、サルトルらは十分に研究されたのだろうか?
(否、まるで研究されていないというべきだ。)
そういったことについて、私は私の連れとごくまれに話し合うことができる。
それは私の強みかな。そのうえ連れはキリスト教会のメンバーだ。
私のこのような状況は誰かにとって嫌悪を誘うものかもしれない。
それは沈黙という名の、この社会での大人の嗜みによって遇されるかもしれない。
いやたぶん遇される。
私は本当は臆病なので、対象の言動に注意を払う。
肯定されることを求めるほど厚顔無恥ではない。
そして隠されているであろう嫌悪にやはりとため息をつく。
なぜこんな得にもならぬ(致命的な)書き込みをするのか?
言葉という呪術にまだ希望をもつからなのか?
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