【質問 kérdés】
貨物船「ペトレラ」について教えてください.
Kérem, mondja meg a teherhajó "Petrella"-ról.
【回答 válasz】
フランス⇒イタリア⇒ドイツと所有が移った貨物船.
大戦末期,イタリア兵捕虜を満載してイタリア本土に向かったが,英潜水艦に沈められて捕虜2670名が死亡したことで知られる.
元は第一次世界大戦後のフランス政府が,商船隊補充のために建造を命じた9隻のうちの一隻.
貨物船として「パスツール」という名で,1923年2月に進水,同年8月に就役した.
当初,Plisson et Cie de Bayonneという会社の下で運航された後,他社への売却を繰り返した.
国籍が変わるのは1941年7月10日.
フランス降伏後,この船はイタリア政府の所有となり,「Capo Pino」と改名された.
ところがイタリアが連合軍と休戦すると,1943年9月8日,ギリシャのパトラスでドイツによって鹵獲され,「Petrella」と改名される.
ドイツ軍のために地中海で鹵獲された船舶を管理していた国有企業であるMittelmeer-Reederei GmbHの所有権のもとで運営されていたが,1944年,クレタ島のイタリア兵捕虜をイタリア本土に運ぶことになった.
クレタ島にはイタリア陸軍第51歩兵師団「シエナ」,約21,700人が駐屯していたが,イタリアの休戦に伴い,ドイツ第22歩兵師団によって武装解除された.
他の地域同様,彼らイタリア兵はドイツ兵と共に戦争を続けるか,強制労働を行うために軍の被収容者としてドイツ本土に送られるかを選択させられることになった.
戦いを続けようとする者は少数だったが,彼らによって「Legione Italiana Volontari Creta」が結成された.
残りの者はドイツ本土に送られることとなった.
1944年2月7日,捕虜の一部3,173人がペトレラに詰め込まれた.
ドイツ軍と協力することに合意した者のみ,オープンデッキへ自由に上がることができ,ドイツ兵と共に捕虜の監視にもあたった.
翌日0500,ピレウス港からイタリア本土へ向けて出港.
だが,船は英潜水艦HMS Sportsman に発見される.
ペトレラに随伴していた護衛艦は0630,爆雷を投下,
08:00〜08:30,Soudaから約15マイルの沖で,ペトレラは潜水艦の雷撃を受けた.
大きな爆発が2度起き,船体が歪む.
貨物倉に詰め込まれていた捕虜たちはパニックに陥り,オープンデッキに出ようとしたが,ハッチ付近にいたドイツ兵の看守は,最初にハッチ開口部を掴んだ男の指を叩きつぶし,手榴弾と機関銃とで捕虜を制止した.
間もなく,随伴の護衛艦がドイツ兵を救助するためにペトレラに接舷.
そのとき生き残っていた捕虜たちはオープンデッキに出てきて海に飛び込んだ.
イタリア紙の報道によれば,護衛艦のドイツ兵たちは海中の捕虜たちにも発砲を続けたという.
1100頃,ペトレラの機関が爆発.
船体は二つに割けたが,なお浮揚していた.
護衛艦は沈没の渦に巻き込まれるのを恐れ,海中の捕虜を残して退避.
その後,ギリシャ船が現場に到着し,まだ生きていた少数の捕虜を救助.
生存者はチャニアの町の近くの刑務所に送られ,翌日,ピレウスに空輸された.
これにより死亡した捕虜は2670人に及んだという.
1945年5月9日に行われたドイツ軍の降伏後,責任者のWagener将軍らは,ローマ軍事法廷にて
「武力行使に参加していないイタリア人に対する暴力,虐待,飢餓,逃亡しようとした場合の報復処刑,不十分な医療」などのかどにより,15年の懲役刑を宣告されている.
【参考ページ Referencia Oldal】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』(大日本絵画,2017), p.220
http://invisiblegraves.weebly.com/petrella.html
https://www.warhistoryonline.com/guest-bloggers/steamship-oria-forgotten-tomb-4200-italian-soldiers.html ※図1引用元
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