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2018年09月12日19:23

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不謹慎厨の卑しさ

■芸能人を謝罪に追い込む「不謹慎狩り」に箕輪厚介が怒り心頭 「こいつらはクズだなって言い続けるしかない」
(キャリコネ - 09月12日 06:51)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=5284856


昔あったディズニーの、ちょっとした教養がないことによるつまらないみみっちい発言で台無しになった「なんでもない日」とそっくりですな。

ちなみに9月12日は、1988年にハリケーン・ギルバートがジャマイカに上陸したあとにメキシコに再上陸し、あわせて341名の死者を出した日ですが、この手の人は「日本で起きていないこと」に加え、本人の教養が不足していて災いが福となったか、つまらないみみっちい発言で「なんでもない日おめでとう」を台無しにすることはなかったようですね。

「なんでもない1日」がくだらない言葉狩りにあったのだそうだ : 長谷川豊 公式コラム 『本気論 本音論』
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/45064722.html

こういう、見ていて頭の痛くなるニュースが、私の中では典型的な「バカニュース」なのだ。知っている方も多いだろうが、解説する。

8月9日にディズニーの公式ツイッターに次のようなメッセージが更新された。

「なんでもない日おめでとう。」

これは、かの有名な児童文学である「不思議の国のアリス」のワンシーンに登場する「The Unbirthday Song(誕生日ではない日の歌)」の話だ。はっきり言って、多少の教養があれば、かなり誰でも知ってるレベルの話であり、「美女と野獣」の「Beauty and the Beast」や「オズの魔法使いの「Over The Rainbow」、「サウンドオブミュージック」の「ドレミの歌」などと同様に、「不思議の国のアリス」の中では、もっとも有名な楽曲の一つである。

不思議の国に迷い込んだアリスがいかれた帽子屋と三角うさぎのパーティーに遭遇するシーン。彼らは
「誕生日だけを祝うのなら、1年で1日しか祝えないじゃないか」
「誕生日以外の日だっておめでたい1日なんだ」
と言ってパーティーをしているのである。

もともと、言葉遊びや、矛盾した表現を多用している「不思議の国のアリス」の中でも、「誕生日以外だって特別な1日だ」という表現は共感を呼び、

「The Unbirthday Song」=『誕生日ではない日の歌』

はとても人気のある、明るいナンバーの一つなのだ。
ディズニージャパンは『誕生日でない日』という歌をより分かり易く表現するために「なんでもない1日」と意訳し、「みなさんが『なんでもない1日』と思っている日常の毎日が、実はとても素敵な1日なんです」と歌っているのだ。
私は、その意訳がとても気に入っている。逆説的で原作の「不思議の国のアリス」の意味もしっかりと組みこめていると考えるからだ。

しかし、その「意訳」にかみついたのがネット上の、教養1つないバカどもである。

「今日は8月9日だぞ!長崎に原爆が投下された日だぁ!」
「アメリカでやれ!日本は被爆国なんだぞ!」
「『何でもない』日とはなんだぁぁぁぁぁ!」

残念だが、これだけの数の日本人がいるのだ。1億2700万人だ。それだけの連中がネットを使いまくっている。「スルー」という技術をどうか身に付けてほしい。誰でも分かってる話だが、以下に論拠を述べる。

・ディズニー社はかの有名な「不思議の国のアリス」の中のワンシーンを、しかも最低レベルの知識があれば知っているレベルの「歌のタイトル」をツイートしただけである。原爆と全く関係のない話だ。

・しかも、歌の原題は「The Unbirthday Song」である。「誕生日ではない日の歌」である。原爆と一体何の関係があるんだ?

日本のディズニー社の訳が意訳で「なんでもない1日」としたのは、「誕生日のような特別でもない1日1日だって、あなたにとってはきっと特別な1日なのです」と伝えたいからである。素晴らしいメッセージだと思う。その「真意」を汲み取りもせず、深く考えもせず、調べもせず、汗もかかず、努力もせずに

表面上だけの言葉を取りあげて「不適切だ!」と抗議しまくる連中のことを、日本語では




バカ



と表現するのだ。
今までのディズニー社の社会的な貢献度合いや世界観を見れば、十分伝わる話だろうが。んなことも理解できずに、何、批判だけを寄せているのか。

聞くところによると、AKBの峯岸みなみさんも、8月9日のことを「ハグの日だね!」と書いたところ、批判が来たという低レベルすぎる話も伝わってきている。
原爆投下を必死になって叫び続け、他者を攻撃しているバカどもよりも、人と人が触れ合い、ハグできる関係になる方がよほど平和だ。私は峯岸さんに同調したい。これからは8月9日は、私は

「ハグの日」

と呼ぼう。その方がよほど未来志向だ。語呂もいいし。

ディズニー社はさすがと言うかなんというか、こんなのに付き合って謝罪して訂正したらしい。ほっとけばいいのに。正常な人間なら誰もディズニーのことを批判したりはしないだろう。

私はディズニーに特段思い入れもないし、興味もない人間だが、今回の件は災難だったなぁ、と同情する。やれやれである。

・・・・・・・・・・・・・・・

この手の人間に限らず、「うさんくさい」のは、「被害者」という他人を出しにして自分の卑しさを出しているからです。いい加減気づかれたらいかがでしょう。 

そういうことをする人には、わかりやすい外形的な特徴があります。  

「首尾一貫性がない」ということです。    

例えば、イギリスの国家意思自体は、国益の最大化という意味では首尾一貫しています。  
そういうことをする人は、「こんなことをしたら、対象が喜ぶかも知れない」と思って、走り回っている為に、動線には法則性が一切ありません。  

何故ならば、クレイマーたちが「対象」と呼んでいるものは、彼ら、彼女らひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」でしかないからです。    

「クレイマーが『それ』だと思っているもの」こそが、そういうことをする人たちにとっての「それ」でしかないのです。     

「それ」が直接こちらに「指示」を出しているなら、その指示は権威付けされており、どの施策も首尾一貫します。   

対照的に、そういうことをする人にとっての「対象の欲望と推定されているもの」は誰によっても権威付けされておりません。  

「言挙げされていない」欲望に焦点化しているのですから。 

「いや、殿、その先はおっしゃいますな。  
何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。  
ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」     

これがその本懐といってもいいでしょう。     

「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」であります。  
ここで三太夫は、「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定します。    

彼は、相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに、「自分の欲望」を語ります。     

「せこい」やつが対象の意思を想定すると、対象は「せこい性格」を持ったものとして観念されます。  

クレイマーが「それの意思だと思っているもの」は、それぞれの「もしクレイマーがそれだったら、へこへこへつらってくる人間に向かって何を要求するか?」という自問への答えの部分でしかないのです。  

ここまで、「そういうこと」と書いてきたのは「忖度」でしかありません。     

「忖度されたそれの意思」はクレイマーの「卑しさ」をそのままに表示することになります。  

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