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2018年08月15日07:05

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8月15日(水) #1670 「奪う」事と「壊す」事

おはようございます。木下藤吉郎です。


今から55年前の1963年(昭和38年)の今日、日比谷公会堂で、日本政府主催の初の全国戦没者追悼式が行われました。

■昭和毎日:第1回全国戦没者追悼式 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1963/08/post-b70c.html


また、今から40年前の1978年(昭和53年)の今日は、お笑いトリオ『ロバート』の秋山竜次(あきやま りゅうじ)さんの生まれた日です。

■秋山竜次 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E7%AB%9C%E6%AC%A1

■ロバート - 久光製薬
http://www.hisamitsu.co.jp/whatsnew/pdf/info_180426.pdf



























8月15日 水曜日

終戦記念日の朝を迎えました。けさは、きのうの続きになります。きのうは日記の末尾に「戦争は大量の人の命を“破壊する”事を正当化させてしまう」と示し、あえて「命を“奪う”」とは示しませんでした。その理由を述べたいと思います。

「奪う」という単語には実に広い解釈がされているようで、概ね「人が所有しているものを相手の意思に反して無理矢理自分のものにする事」の意味にこそなっていますが、ものに限らず「権利」も対象になっており、転じて「相手の所有しているものを失わせる」という意味にも使われているようです。

なので、「命を奪う」なる言葉は、「生きる権利を奪う(奪われる)」という意味と言えるでしょう。

しかし私は、命や生きる権利なるものにおいては、「奪う」という表現はいささか違和感を覚えるのです。

なぜならば、「奪われた」ものは、努力や自然の流れ次第で「取り戻せる」ものが殆どだからです。

権利とて、学習して相手を説得する事で、取り戻せるケースは少なくありません。(※もちろんダメなケースもある)

ところが、命、生きる権利というものは、奪われると一切取り戻す事は不可能になります。いくら遺族や知人の方々が「命を返せ!」と叫び訴えたところで、「命を奪われ」亡くなられた方は二度と息もする事なく、笑う事も、怒る事も、喜ぶ事も、一切できなくなるのです。

奪う≒努力などで取り戻せる なる論理に当てはめれば、命は一度絶えれば取り戻す事は不可能ですから、殺害なる行為に「命を奪う」なる表現はおかしい、「命を破壊する」「命を壊す」とした方がより相応しいのではないか、と思ったのです。

と、こんな事を言い出しますと「壊されたものだって、元通りに戻せるものもたくさんあるじゃないか!」という声が聞こえて来そうですが、それこそ屁理屈にしか私には思えません。卵の殻やガラスなど、一度壊れたら二度と元に戻せないものも身近な所にたくさんあると思います。器に入れられた水は地面に撒かれてしまうと水が下に染み込んでしまい、二度と元に戻すことはできません(覆水、盆に返らず)。それと同じような事だと思うのです。

そんな、命を“破壊する”事を正当化してしまう「戦争」を二度と起こさないためにも、過去をよく学び、命の尊さを理解する事が必要であるように、私は強く思います。

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