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2018年06月11日02:37

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北方謙三「水滸伝 十一 天地の章」

ただの覚書と、もしもで水滸伝ファンなり北方謙三氏のファンの方と話題を共有できたら楽しいだろうなぁと、なんとなくだが期待しつつ、ただ覚書として書いているというのもありつつ。。

十一巻め、天地の章

十巻で、山場とおもいきや、まさかのこの巻で山場がきた。

しかも、最後の最後に山場がきた。

その山場は、書かないが、とにかく全体の大きな話の流れの山場がここできた。

北方氏、ここで山場をもってくるとは、すごい、さすがだ。 予想もつかなかった。 しかも、こういう形で、山場はないと思わせて、最後に大きく鋭くターニングポイントというか「わーお!」な展開にもってこられて、「さすが巨匠、北方謙三(さん)!」とか、

思わず叫んでしまいたいくらい、読み終えてからじわじわと「ここが山場だったかぁ〜」と「すごいなぁ〜 このもっていきかた! はてしない!」と心の中で感嘆が沸き起こるもっていき方で、なんか作家というか「物書きの巨匠ここにあり」という感銘をうけた。

にしても、北方さんの、書物の中での登場人物たちの死なせ方はは実に美しくかっこいい。
自分が本の中に登場したら「どう美しく華麗に死なせてくれるのかな」とまでも空想してしまうほどに、どの登場人物の死もきっちりと美しくかっこよく潔く清くしてくれるのだ。

このシリーズではないが、北方三国志での「曹操」の死なせ方は、未だにその素晴らしさが記憶に残る。 

生きてきた曹操が死ぬ前に実際には最後に「生」の何を見るかということで、この水滸伝のこの巻でも晁蓋には一体なにが大事でなにを最後に思うのか、人生のすべてを振り返り、「今まさに亡くなろうとしている自分(曹操、晁蓋)は、結局のところ何を思い、何をして、今この時を迎え、そして一体それは自分(曹操、晁蓋)にとってなんであって、なにを今、もし生きるのならしようとしているのだろう」

ということを、実に美しく、「あなたは神様か?! 曹操の、晁蓋の人生をすべてみつくしてきたのか!?!」と問うてしまうくらいに、いいことそうでないこと色々とある一人の人としてへの慈しみを神様のごとく仏様のごとく見事におさめているのだ。

もちろん、三国志も水滸伝も、北方三国志、北方水滸伝とわざわざ「北方」といれるくらいで、北方謙三氏の独特のたっちで描かれているので、これに出てくる曹操も晁蓋も北方さんの子供のようなものだが、それにしても、その器量と度量は果てしない。

自分が作家になりきれないのは、人というものをよく知りきっていないからだと思うときがある。 人が書けない。 人が書けないとということは、自分の中では致命的だ。 どんな面白い話も登場人物が書けないがゆえに面白くなくなってしまう。

北方さんはその点、どんな人も素晴らしく美しく書いてしまう。

「歌や踊りとも、縁のない生活をしてきた。じっくりと聴いていると、歌もいいものだと感じられてくる。そういうものとまるで縁を持たなかった自分は、なにかが欠けているのだろうか。 

夢があった。 男として、その生を懸けるに値する夢があった。 夢はやがて、少しずつかたちを持ち、いま、生きたものとして立ち上がろうとしている。 間違ってはいない。 なにが欠けているわけでもない。 ただ、夢が充溢していただけだ。 ほかのものが入る余地などなかった」

と晁蓋が楽和の歌に耳を傾けたときの述懐。

これがとてもよく自分にはよくわかる気がする。遥か彼方の遠い昔の自分の輪廻転生の世で、同じような述懐を何度かしたような気持ちにさせられる。

そして、その思いと夢なかばで、予期せずして肩に受けた弓矢で毒殺されて死んでいく晁蓋。

「やわらかく、冷たく、得体の知れないものは自分を包み続けていた。また、憤怒がこみあげてくる。今度こそ、両断してやる。まやかしの中ですべてを終わらせてたまるものか。 身体を起こした。 立った。 剣を抜く。

『去ねっ』 晁蓋は叫んだ。自分を包み込むものを両断したと思った。
そのむこうには、鮮やかな光に満ちた世界が拡がっていた。」





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