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2018年06月04日05:27

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「水滸伝 十 濁流の章」北方謙三

北方謙三氏の文庫本19巻の中の、10巻め

「呼延灼」が登場する。

呼延灼は、官軍(「宗」の国の政府軍)の(代州)地方の将軍。

苗字が「呼」で、下の名前が「延灼」だったかな?

自分と考え方ややり方が似ていて親しみをもてた。

しかし、自分と違って、思い切ったことを最後はしてくれて「ほううううう そうきますかぁ〜」と考えさせられた。

本だから、そうできたのかというか、北方さんが勇気をもたせてくれたのか、と考えてもみたが、オリジナルの水滸伝でもそういういきさつはあったのかもしれなくて、でも、北方さんがかっこよく、そっちの方向にもっていってくださったおかげで、受け入れられた。

自分は前に呼延灼と同じような間違いをしたことがあり、そこから立ち直ってなくて、というか、どう立ち直っていいのかわからなかった、立ち直る方向が見えなかったので、本の中で、呼延灼が自分の代わりになって歩みだしてくれたような気持ちになれて、なんか心地よかった。

水滸伝は、12世紀初めの中国の一部その昔の「宗」の国での話らしい。

本の最後に「解説」が毎回あるのだが、解説者も毎回違い、それぞれの方々の解説というよりは読書感想やそれぞれの方々の個人的な意見に近い話がそれぞれに面白い。

今回面白かったのは、北方氏の「革命」と水滸伝の話の関係。

この水滸伝には、宗の国を志をもって倒そうとする革命軍「梁山泊軍」のリーダーが二人、宋江(そうこう)と晁蓋(ちょうがい)がいる。 

北方氏は、学生運動もご経験されていたことと、その多感な時期に「革命」という言葉となる「キューバ革命」の時期もあって「宋江をカストロ、晁蓋をゲバラ、とみたてて、キューバのバックについていた米国を巨大な宗の国としていたので、これほど明確に一貫性をもって熱く物語を書いた。 水滸伝という形をかりて、説話を書いた」とあった。

「青春期に、何かを変えられるかもしれないという可能性を信じられた自分、そういう青春の熱さを小説家だったら再現でき、小説家だからこそ再現すべきである」と、これまた熱くていい。

自分にとっては、生きるとは可能性の連続であり、それをどう生かし続けていけるかだと思う時がある。

ただ、自分は「革命」は過去の産物であり、古代の武器という位置付けが自分の中でできてきているので、昨年に革命という名の元にいろんな新しいことを展開されている方々にお逢いさせていただいたけれども、やはり気持ちは組み入れられなかった。

反発してやることに従事すると、反発にエネルギーをとられて、肝心の自分が実現したいことにエネルギーがほとんど残らないので、結局、反発したかっただけなのかな と経験で感じてきていた。

それなら、初めから自分が実現したいことにエネルギーを入れる方が自分はいい。 壊して何かを創るのではなくて、あるものを活かしつつ創っていく方が自分はすきだ。破壊ではなくて、常に調和の状態を自分は理想とするし、それにそれで実現できることに満足もあり至福も感じる。

北方氏の小説の面白さは、敵も味方も、きちんとそれぞれの男らしい生き樣のかっこよさがある。 どちらも、それぞれに男として生きる上での事情があり、生き方があり、敵だ味方だの立場や役割は関係ない。 

革命も、革命が全てだではなくて、革命があった事実に基づいて、あくまでもそれはフレームであって、実際は、男のそれぞれの生き様が描かれている。 ただ反発すればいいということではない。

反発するのは子供でもできる。 大人になる愉しさは、創れることだ。 いろんなものから創っていく。 いろいろとあの手この手を考えて、あの手この手をつかって創っていく。

敵は誰でもつくれるけれども、仲間をつくり維持していくのは簡単ではない。できないことをできるようにしていくのが愉しい。 敵を仲間にかえていくのがたのしい。

水滸伝には、この敵を味方にしていく過程も書いてあって、それも面白い。 

弱いのが強くなっていくから楽しく面白い。 弱さの分だけの強さをみにつけいくことにおもしろさがある。 だから、果てしなく弱いということは、果てしなく強いということでもあるから、どんどん弱さを強さに変えていく醍醐味がある。

呼延灼は、官軍の将軍として少ない犠牲で大勝をするが、その後、官軍の上司に騙されて、自分の軍を使われた上に犠牲も結果多くだしてしまう。 軍人としての自分に見切りをつけたくなるのだが、敵であった梁山泊軍に勧誘される。

結果、この10巻の地点では、呼延灼は梁山泊軍に入るのだが、梁山泊軍は呼延灼に1割の味方を犠牲にさせられている。 その中に呼延灼は入っていく。 呼延灼は入るにあたって苦悩する。 

指揮官として一番したくないのは、育てた兵を誰一人死なせたくないということだ。 犠牲をできれば一人だりとも出したくない。敵においてもそう。 犠牲をだすために戦うのではない、なにかに到達するための手段として戦いがあるだけの話で、戦い自体が目的ではないのだ。

ただ、そう考えている人たちは多くはない。 犠牲が出て当たり前と考える指揮官にあたったときが喜べないときでもある。 呼延灼は、犠牲を誰もだしたくないタイプだ。

なので、たとえ戦いだったとしても、たくさんの犠牲を出してしまった相手の軍に入るのは、呼延灼という一個人の人として、忍び難いことでもあった。 だから呼延灼は苦悩する。 

呼延灼が大敗してしまった部下全員を集めて詫びた。

「すまなかった。 俺が留守をしてしまったばかりにおまえたちをこんな目に遭わせてしまった。いま俺の心はただ痛いだけだ」

そして部下が呼延灼のもとで闘おうというが、呼延灼は断り、部下を無事に安全に故郷に返すように敵である梁山泊に助けを求めて、その交換として呼延灼の命を預けることになる。

そこへ、梁山泊軍の人たちは大人な対応を呼延灼にしてくる。 梁山泊軍に強制はしないが、よかったら入れと。 「戦いは戦い。それにより、憎しみまでも生まれさせたくない。お互いに十分すぎるほどに兵を死なせたではないか」と言って、入ってほしいと呼延灼に頼み込むのである。

そして、呼延灼が1ヶ月ほど梁山泊に暮らしてみてから、入る決心をするのだが、一兵として下からやり直すつもりだったのだが、いきなりトップ2のポジションを与えられて、戸惑っているところへ、

呼延灼との戦いで死んでいった兄弟や親友をもつ指揮官たちが呼延灼のもとにやってきていう

「お前が謝るような男だったら、俺がお前との戦いで死んでいった弟の死を受け入れて、そしてお前も梁山泊の仲間として、そして上司として受け入れることを言わなかっただろう。俺は忘れることにする。 だから、お前も忘れてくれ。そして、これからは連帯することを考えよう」

と。 なんとも大人な対応だ。 それを受けて呼延灼も大人になる。

敵の上官となって最初の日、呼延灼は元敵兵でこの日から仲間の部下兵にいう

「今日からおまえたちの命は俺のものだ。 俺のものだから大事にはする。 ただ捨てなければならないこともある。 死ぬことを恐れるな。 しかし、無駄で愚かな死は禁じる。調練はこれまでより厳しい。 生き残るために、苦しい思いをすると思え」

と。

こういう人間くさいところがだいすきだ。

12世紀の戦いには、軍人に戦いの上で死は現実のものとして存在したのだ。

というわけで、呼延灼も加わりますます面白くなった、11巻が楽しみだ。















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