mixiユーザー(id:65933753)

2018年05月19日19:18

159 view

一問一答を読んでも、主語が広すぎて説明を諦めてしまっている

日大・内田監督、謝罪後に辞任表明「全て私の責任」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=5117886



一問一答を読んだ限りだと、24日のを読めってか、って感じがしますが、どうも日大広報は、なぜなぜ分析をするところから始めないと、人をなめた謝りかたをして 反省がない と言われかねないので、少し考えた方がいいですよ。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5118030&media_id=168
反則プレー「注意はしていません」日大・内田監督が説明 4
2018年05月19日 18:01 朝日新聞デジタル

この手の謝りかたは、はいはい私が悪いんですぅ!!というよくあるヒステリーを起こしたやつが開き直る分かりやすい一手なので、この点について何がどう悪く、その原因はどうで、原因を引き起こした要因はこれこれで、と深堀しないと、まともな大人の改善にはつながりませんね。
すべて、とかもう主語にせよ目的語にせよ範囲が広すぎて聞く側、読む側が読んでいて霞んでくるんですよね。アバウトすぎる話をするな、って教わらなかったのか、と思いましたけど、今は危機管理部門が「全部自分のせいにしろ」って教えるんだったな、と思い出しました。

そういや、今回の従属的な要因のひとつが、就活に響くからでしたっけ?アメフトを就活の武器にしようなんて腐ったことを考えてるんじゃねえよ、と思いつつ、
会社の担当者も逐一内田におうかがいを立てるんか?って思ったのもあるし、
内田も内田で こいつはどうこうだから とか喋り立てをするんか、ってあきれたんですがねえ。
こうやってコネに依存するとろくなことをしないってわかっただろうから、他人は関与しちゃいけないんだ、って少しはわかってもらいたいんですがねえ。
ボランティアしたからどう、とかボランティアを武器にするやつも、目的が結局は就活が起点になる時点で、危険度は同じなんですよ。
起点をそこにおいてどう影響するかを考えているから、こうしてろくでもないことに発展する。
結局、根は同じなんです。起点をどこに置くかを間違えて行動するから、こうしてすべて腐っていく。

・・・・・・・・・・・・・・・

ヒントとして、はれのひ のときの窪田のを置いとくことにします。会見を見るときのポイントになりそうですね。
過去の事例を参考に、果たしてどう内田が謝ることができるか?いや、この手のは、あんまりわかってなさそうだけどなあ。

http://diamond.jp/articles/-/157918?page=5
コインチェック、はれのひ…炎上謝罪会見を生む「傲慢な思い違い」 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

その代表的なケースが炎上謝罪会見である。どんなに深々と頭を下げて、殊勝な顔で被害者へ謝罪の言葉を口にしても、スケベ心があるので、ふと気を抜いた瞬間に、言葉の端々に「自己保身」が垣間見えて、「感じの悪い対応」になってしまうのである。

 わかりやすいのが、はれのひの篠崎社長だ。あの長時間に及んだ謝罪会見のなかで、これから被害者に個別の謝罪をする予定はないかと問われ、緊張の糸が切れたのか、こんな本音を漏らした。

「具体的にどうするかはちょっと浮かびませんけども、日にちもかかりますし、しなきゃいけないかなとは思います。今の話を聞いて」

「しなきゃいけないかとは思う」と言うが、「する」とは明言しない。「したい」という強いお詫びの意志もない。できることなら、そういう面倒なことはせずに、この修羅場をどうにか切り抜けたいというスケベ心が、残酷なまでに露呈してしまった瞬間である。

 自己保身をしたくなるのが人間なのだから、ある程度はしょうがないだろ。そんな声が聞こえてきそうだが、だからこそ「危機は管理できる」という思い込みを捨てていただくことが重要なのだ。

 危機は管理できない。その厳しい現実を素直に受け入れれば、あまりにも強すぎる自己保身の感情は一旦脇に置き、「危機」に対して真摯に向き合う以外に、真に助かる道はないことに気づくだろう。この心境に達してはじめて、どうしても目をそむけがちな被害者や社会のことを念頭に置いた、心の底からの謝罪が自然にできるようになるのだ。

http://diamond.jp/articles/-/142893?display=b

豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由 | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

「作法」も「話法」も、謝罪会見の「テンプレ」に基づいて無難に乗り切ったはずなのに、「どうせ選挙に出るために体面を取り繕ってるんでしょ」と、かえってマイナスになってしまっているのだ。

 だったら、どうすればよかったか。

 いろいろな考え方があるので、「これが正解」というものは難しいが、もし筆者が豊田氏からアドバイスを求められたら、まずはご本人に「いい負け方」の道を納得していただくことから始める。

 ご本人や会見をサポートしていた方たちからお話を伺ったわけではないので、あくまで筆者の想像の域を脱しない話だが、会見での発言から、豊田氏サイド的には以下の3つのゴールを目指していたように思う。

1.「あの暴言は特別な状況で生まれたもの」とやんわりと世間に伝える
2.「新潮の報道内容はすべてが事実ではありません」とやんわりと世間に伝える
3.「なんやかんやありましたけど、次の選挙も出ます!」とやんわりと世間に伝える

「なんて都合のいいことを」と呆れる方も多いだろうが、不祥事の当事者となった方たちというのは、往々にしてこういう考え方をする。世間の見方としては「謝罪会見」というのは「潔く負けを認めるみそぎの場」なのだが、実際に「謝罪会見」に臨む側は、「報道被害に対する釈明の場」だと考える。そう、彼らは「加害者としての自分」よりも、嵐のような報道にさらされた「被害者としての自分」に意識が向きがちなのだ。

 この悲劇的な認識のすれ違いが、「謝罪会見でちっとも反省していなかった」という世間の反感を生み出すのである。

Simple man simple dream
1999年4月9日
http://www.tatsuru.com/columns/simple/16.html

渦中の京大教授は、その書き記すところによると、自分は100%正しく、自分に対する批判はそのすべてが嘘、狂気、嫉妬、憎悪などに発するものであると主張している。こういう状況で自分が100%正しく、批判者は100%邪悪である、という反論を試みるのは戦術的にはたいへん拙劣なことである。

それはこの人物がこれまでこのような「決して自分の非を認めない」というかたちで議論に勝ち続けてきたことをはしなくもあらわにしてしまうからである。

『薮の中』的状況で被疑者が試みるべきなのは「真実を語る」ことではない。(「真実」は『薮の中』にあって誰にも見ることができない。)そうではなくて「この人は自己評価が客観的である」という評価を獲得することなのである。

「自分は100%正しい」という主張は自己評価の客観性を致命的に損なってしまう。

こういう場合には「たしかに私にもとがめられるべき点はあるだろう。AとBの批判は掬すべきである。しかしCの批判は事実無根である」というふうに反論するのが定石である。

このような初歩的な説得術を知らないということは、彼がこれまで他人の批判に耳を傾ける習慣をもっていなかったことを窺わせる。つねに100%正しい人は他人の批判に耳を貸さない。おそらく彼はそうやってこれまでさまざまな論戦に勝利してきたのであろう。その勝利のうちにはあきらかに彼に非があり、彼に論破された側に理があったケースもあったはずである。

彼はいま、その「つけ」を払っているのである。


2 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する