「ポリティカル・コレクトネス」略してポリコレ、
今、社会、政治のニュースでちょくちょく目にする言葉なのですが、
動詞名詞的な使い方として、ポリコレ棒、と言う表現で使われています、
意味としては政治的な正しさ、なので、
翻してポリコレ棒で叩かれる、と言うと、
政治的な間違いを否定批判される、と言う状況になるかと思うのですが、
言葉としては政治的な、と言う分野に関する表現になっていますが、
今の実情としては、政治的な間違い、道徳的な間違い、
倫理上の間違い、なども含めて批判される事になっていると思うのです、
ここで違和感と嫌悪感を持つのは、その批判する人物と批判される対象、
そしてその批判の仕方がおかしいのです、
政治的な、と言う言葉であるにも関わらず、
ポリコレ棒で叩く対象と言うのは、
LGBTなどの性的少数派を保護対象として、
それ以外の圧倒的多数派を批判したり、
移民問題だと移民を保護対象として、移民ではない多数派を批判したりしています、
これらの行動からわかるのは、ポリコレ棒で叩かれるのは多数派であり、
少数派を叩く対象とすることはほぼあり得ない事です、
ポリコレ棒が実際使われた例で言えば、
例えば「看護婦」と言う言葉は婦人、つまり女性に限定した名称で差別的だ、として、
「看護師」と言う言葉に改められましたし、
同じ理由で「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」に改められたりしました、
これらは名称の変更だけであって、実質的な害のあるものではありませんが、
最近の例で言えば、障害者が虐げられている、として、
飛行機の搭乗の際、車いすである事を事前に伝えようともせず、
搭乗のその場で車いすである事を伝え、
搭乗拒否された訳でもないのに、拒否されたと主張し、
タラップを腕で昇り抗議した、と言う例があります、
これは政治的な正しさ、と言うより、道徳的な正しさを主張しているようですが、
代金を支払い、飛行機に乗るのは、利用者、航空会社双方とも商売ですから、
商売の倫理で言えば事前の通達不備が一番の問題です、
しかし、この場合、ポリコレ棒を持ち出したのは搭乗した障害者であり、
叩かれたのは航空会社側になります、
こういった件を見るにつれ、
一定の法則があるとすれば、
「少数派」が「多数派」に対して、
自身の落ち度や道徳的倫理的な間違いを無視して、
一方的に主張する正義を振りかざそうとすることです、
もし、ポリコレ棒で叩く対象が実質政治的な間違いがある人物や団体であるなら、
反社会的な政治団体や集団、
暴力的な政治団体、
それらの間違いや危険性を叩くでしょう、
しかし、私の見る限り、ポリコレ棒をふるっているのは、
逆にそういった反社会的な組織や、暴力的な組織の方です、
例えて言えば、何とかしばき隊や、SEALDs、
反原発のデモや反政府デモも同じように映ります、
これらポリコレ棒を持ち出そうとする団体や組織は、
多数派を批判せずにいられません、
LGBTであれば、本来の目的は相互理解を目指すはずなのに、
性的な多数派にまず最初に理解と言う名の譲歩をさせようとします、
自身のせねばならない説明をする必要性や、
疑問やすり合わせをせねばならない許容力、忍耐力は無視しています、
必ずと言っていいほど、多数派に許容力と忍耐力を求めます、
こういった例を見るに、陰謀論が好きな一派がありますが、
陰謀論を持ち出すとすれば、
ポリコレ棒で叩く対象は最初は名称の変更で、
さほど実害のないものを対象とし、
それらの名称を改めさせ、自信と実力をつけたところで、
多数派にとって実害のある譲歩と一方的な犠牲を要求します、
それは政治的な道義的な、倫理面でも妥当性のないものであっても、
無秩序な正義を振りかざして、それを達成しようとします、
ポリコレ棒を振っている側は気が付いていないでしょうが、
自身の望む方向性が社会にとって好ましくない方向に向けられていて、
要求しているレベルが順々にあげられて行っている事を、
それは何の意図と目的があるのかわかりませんが、
無秩序な正義を振りかざし、
自分の行いを振り返ろうともしない組織集団に、
私としては正義などあり得ない、と思うのです、
間違いがない、正義はこちらにある、として、
行動を勧めたのは誰が最初で、
今、何を叩こうとしているのか?
ポリコレ棒と言う言葉を知り、
少数派による多数派に対する要求と言うのが、
本来目標にすべき理解や許容される社会ではなく、
単なる多数派の誹謗中傷や暴力に対して、
一方的な正義を貸与しているだけではないのか?
長くなりましたが、そう思えてならん今日この頃です。
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