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2018年05月11日23:14

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勇気を持つということ

勇気をもつということは、

一番 これまた 勇気がいる。

2017年の9月からお世話になっているアメリカのセミナーのコミュニケーションボードで、ちょっとした仲違いが他の方々で起こった。

普通なら、というか、今までなら、知らぬふり、

巻き込まれないように

無視をするのだが、

「大人になって無視というのは、もう愛がなさすぎると、大人になったのだから、敢えて愛をもってなんとか応えるのだ」

となり、がんばったけれど、2週間、もやもやとしてらちがあかなかった。

誰も批判せずに、本人達自身で気づいて欲しいという方向は決まったが、それが批判というか自分の意見なしに、言える自信も勇気もなかった。

なんと言っても、女性二人が一人の男性の何気無い一言に一斉攻撃を、本人達は良かれと思ってしかけた形に、自分からは見えたので、その理不尽さに見てて、この二人の女性と話し合いは無理だと思ったからだ。

理屈も理論も通じない。 感情と意見のみで、その男性をバッサバッサときっている。

一人の女性が、仕事で他の街に引っ越して、全く見知らぬ土地で一から仕事もなにかもかも再スタートするので、寂しかったのだと思うけれど、その寂しさとうまく馴染めないことのフラストレーションが一気に、このなんの関係もない男性がとばっちりをうけた形となった。

まぁ、それだけならよかったのだが、それが今度は、ボード全体に新しい規則を作ろうといい始められて、ただ普通の何気無い一般的なセミナーなのに、まるで狂信的な教義のように「この先生の教えを広めましょう」とか、その女性がいい始めて、

自分も含めて、みんなドン引きしてしまい、なんかどよーんとしたままで、誰も立ち入らなかった。

自分も「さわらぬ女性のヒステリーにたたりなし」で、関わらなかったのだけれども、なんか違うなぁと思って、解決策をあれこれ考えたけれど、この男性がされたように根も葉もないことを言われて心地よくない思いはしたくないというのと、

そうされることが怖かったし、英語という自分の母国語でない言語で、母国語のしかも女性と話し合いをしてなにか得られそうなことはなにもなかったし、自分の彼女達へのメッセージも「ええかげんにしいやぁ〜。お前の母ちゃんデベゾと言ったほうのお母ちゃんがデベオと相場は決まってる。 そんな開示をしてなんになるん?!」くらいしなかったので、

ほっといた。

しかし、このセミナーは「勇気をもとう」というのも内容の一つであって、追い打ちをかけるように課題が「勇気をもつこと」とかで、はうううううう

頭の中が、心の中が、この自分の「くさいものには蓋をしろ」や「さわらぬ女性の口論にたたりなし」等が「それではあかんやん。それでは、成長がなさすぎる」と訴えかけてくる、というか、きた。

そして、もんもんとしていた。

正直に言いましょう。

自分は、女性のやさしくないときの女性が、とてつもなく怖い。 やさしいときは、天使だけれども、そうでないときは、天使じゃないくらいじゃすまされないくらいに、果てしないおそろしさも兼ねそなえている、その部分が怖い。

しかも、理論も合理性も、いったいそういう理の世界が全く通じない世界を引っ張り出された上に、その中にひっぱりこまれて、全く別な自分にとっては一番心地よくない次元にひきこまれてしまうので、

お化けよりも、なによりも、それがこわい。

よって、女性の機嫌にはとても敏感だ。

自分も女性だから、そういう部分をもっている。 ただ、幸いなことに、思考が男性的なのでとても少ないのだ。 そうは言え、自分でもこの少ないながらのわずかな部分に戸惑うのだから、他の人のはもう打撃でしかない。

なので、女性とは話し合うとかはなく、指示をうける。 全て相手の女性の言ってることが正しい、どんなに理不尽なことを言われようがなにをされようが「その女性はその言ってる理不尽なことやしてることを正しいと信じきっているのだから、その神域に立ち入らない」

これが、自分の女性との関わりの中のモットーなのだ。 「その神域に立ち入ったが最後、たたりなしで済まされると思うなよ」と自分は幼いころから、女系家族の中で育ち生きてきた父に教えられてやってきた。

そして、今回、大人になろうとおもった というか なりたかったので、大人になる儀式に格好であろうかに思えた、この神域にたちいりたくなった。

しかし、たたりなしで健康に生きてかえってこなければならない。

死活問題だった。

2週間、なんの良作もうかばず、もんもん、として「やっぱりこのまま知らぬ存ぜん、見なかったことにして、ほとぼりがさめるのを待とう」と自分に言い聞かせたが、心が納得しなかった。

そして、昨日 神がおりた。 

自分がこの人たちに言いたかったこと、悟って欲しかったことを、セミナーの講師が言っている動画を見つけたのだ。 「ふふふ、これで悟れなかったら、それはあなた達の問題だ。自力で上がってこい」とガッツポーズ。

しかも、自分の書いたことが非難されても、どう理不尽なことを言われて書かれたとしても、というか、攻めようがない文章の切り出しも、内容も、八百万のどの神様かわからないがどんどんおろしてくださって、

よっしゃー

よっしゃー



すらすらとかけてしまった。 ごっっつあんです!

ポイントは、自分がこわがっていると勇気を持ってかけたことである。 今回の出来事をこころよく思えないでいるし、こころよく思えないのは、自分の未熟さ故であり、その未熟はどこから来ているかというと

こういう仲間同士の仲違いに自分は全くをもって非力であること、そいうか、まとめることのできない非力さで、その非力さに逆に自分が打ちのめされて、手をこまねいてみているしかないという、これまた非力さなのだと。

そして、非力だからこそ、非力のままにしておくのではなくて、力をもつために非力という場所から一歩でて力という場所に踏み出さねばならない、そして、その一歩が自分にとってはその非力さを敢えて認めることであり、こうやって恥を忍んで書くことであり、

それは何よりも自分にとっては勇気のいることであり、怖いことでもある。

怖い怖いと言ってても大人にはなれなかった。 だから、怖いと言いつつも一歩踏み出す、怖い自分とその底にある非力に敢えて対峙してみて、思っていたよりもそれはもっと恐ろしかったし、腰を抜かしたし、涙もでれば怖さで逃げ惑いさえもして、逃げて正解の恐ろしさでもあった

と自分の逃げの知恵もまんざらでもなかったと称賛してしまうくらいだった、だから、長い間そのままにしておいた、そして、今回、それに向き合う良い機会をいただいた、これをとおして自分は成長する、行動にうつすことで、成長する、ごっつあんです。

そして、そうは言っても、いきなり成長するわけではないので、シールドとしてセミナー講師の動画を貼っておいた。 文句言うなら、この人に文句を。。。。

そして、気分は晴れ晴れとした。

20m底にバンジージャンプをするよりも、こういうことのほうがこわい自分である。

幽霊よりもカタギじゃない人たちよりも、女性の天使でない部分がこわい自分である。

それに、対峙したのだ。

勇気なくして語れる話じゃない。




















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