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2018年04月27日23:17

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最終的には、やりがいは単純労働に収斂する

■仕事にやりがいは不必要? 「やりがいを下手に持ち込むからやりがい搾取が生まれるんじゃないの?」と山田五郎
(キャリコネ - 04月27日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=5088649


駅とかで見るバイト広告がやたらと遊園地のなんだの飴細工のなんだのやりながら やりがい をごり押ししてくるが、
他にふつうの職業をブラッシュアップしないあたり、よほどわかりやすいうぬぼれを感じるのか、と思ったのと、あと突き詰めたら やりがい は 単純労働 に収斂するからだな、と思い当たりました。

個人的には、砂を掘っていたら真珠が出てきましたくらいの価値しか抱いていないので、当たり前のことでほめられたくらいで やりがい としてつけあがることは理解に苦しむので、しませんけどね。
あるんだかないんだか、見えない価値に身を委ねるのは好きではないので。

ほめられるのがやりがいなやつは、結果を歪めてでも、媚を売ってでも褒められたいとばかりに行為を歪め、成果物を歪な形で作り上げるまでに走るようになると自覚しておかないと、いずれ暴走しますよ。

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こどもが知っている「働く」ことの経験は、さしあたり受験勉強と就活、バイトくらいと考えていいでしょう。

つまり、努力に対する報酬(成績や合否採否)が(成績発表、内定通知の日に)「遅滞なく」、努力にふさわしい評価として、固有名宛てに届けられるシステムを意味することになります。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のもので、前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのものになります。
つまり、労働の報酬はつねに集団によって共有され、個人的努力に対して個人的報酬は戻されないということになります。

個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われるので、やりがいはそもそも「労働」とは力学的に意味をなしません。

「やりがいのある仕事」が意味するやりがい、ですが、「使命感」とか「社会貢献」ではなく、「受験勉強と同じ」という意味で使うことで、結果として安っぽい労働価値に収斂するのですがねえ。

自分の努力の成果が、必ず自分宛に適切な評価を受けてもどってくるような仕事のこと、と言い換えてよいでしょう。

ほとんどの仕事はそういうふうには構造化されていない、つまりほとんどの仕事は「自分の仕事」と「他人の仕事」のあいだにアナログな境界線をなかなか区切られないように構造化されているので、区切ろうとしたら、仕事をモジュール化するしかないわけです。ドイツとかは、基本そうして他人の仕事に干渉しない性質を作り出しているんでしたかね。

「たしかにこの仕事は隣の人の仕事と間違えようがない」というくらいにきっぱり識別できる仕事というのは、その仕事自体はきわめて均質的なものになりますね。
共同作業の中で、自分の仕事だけを分離できるようにすると、その仕事は「単純労働の繰り返し」にならざるをえないのですね。

Aは同一のモジュールを1週間で仕上げた。
Bはは2週間かかった。
AくんはBくんの単位時間あたりでは2倍の報酬を受けとることができる。

仕事を「計量可能」して、仕事は必然的に「均質」になった。

ドイツだかなんだかしらんが、他人の仕事と自分の仕事がきっぱりと分離され、自分の仕事については自分が100%責任を持ち、その成果も損失も自分が引き受けるという労働環境を求める求職者の精神の行き着く果ては、結局のところは単純作業のチキンレースにしかならない、そういう自覚があってかなくてか、今後もリクルートのバイト広告は、そういう方向に走っていくのだろう。


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