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2018年04月23日12:21

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日記が書けない

スマホはキータッチで間違いが起こり不便極まりない。
3月5日日曜、佐賀で深川さんの嬉野報告がもう一度行われた。少人数でじっくり討論でき、ヒントも差し上げることが出来た。
11日今井書店で古文書学習。
3月17日土曜日小倉城堀底調査現地報告会。18日日曜佐賀戦国とマラソンが重なる。渋滞のための中西さんの遅れとか、勤務に伴う準備不足とかの知らせを大袈裟に受け止めてしまい、前座で小倉城報告を小一時間してしまい、関係者に結果的には迷惑をかけることになった。
24日土曜小岩で細川重男古文書講座、26日月曜日本講談協会若葉会。五反田に二泊。
4月14日土曜いのちのたび博物館で三浦正幸小倉城報告、かなり大きな城で大きな部屋を備えていたことがわかった。残っていれば欠陥建築の姫路なんか目ではないなど、リップサービスすさまじかった。
15日今井書店で古文書学習。
22日唐津城、つる草でゆるんでいた石垣が改修されていた。また明治維新150年ということで展示の新VTRが面白かった(講演ともかぶる)
大島邸で小笠原長行講演(守友隆)、杵築、吉田、岩槻、掛川、棚倉などを経て唐津にやってきた小笠原家、他家の養子が多い中、長行幼少ゆえに養子が続いているが、妾腹ながらもいずれ血を引くこの長行が・・・との期待を担いまた優秀であった。彼は結局世子の立場ながら老中に3度なり、2度解任されたがいずれもすぐに再任された。35歳まで部屋住みながら、容堂の推薦もあり40から異例の出世。生麦事件翌年独断でイギリスに賠償金を払い解決(本当に独断かは疑問)、その直後に卒兵上京しようとし、長行は解任謹慎となるも、京都で窮地に陥っていた家茂が解放され江戸に帰れるきっかけを作った。長行の官位は剥奪されたが、幕府はこれを長行には告げなかった。一年後に長行老中再任。家茂の第二次幕長戦争上京の際に汽船を使うことに反対する篤姫を説得。両者はお互いを評価した。また兵庫開港を巡り、朝廷側説得に活躍するも勅許はなし。戦争のため初め広島、後に小倉に赴く。小倉藩主が病気(実は死去)のため、指揮を執った。四境戦争は、初めは五カ所目の萩に薩摩、久留米の軍艦が投入される計画だった。諸藩が到着遅れで専守防衛を指令し、ために小倉藩は最初の田野浦襲撃への対応が遅れた。幕府戦目付斎藤図書は戦場を離脱する醜態。
二度目大里の戦いは小倉藩が闘うも、他藩の傍観、幕府軍艦も敵のいない彦島を砲撃するなど戦意なし。
三度目の赤坂は熊本小倉奮戦し、長州撃退。しかし熊本も勤王派が力を得て撤退決断していた最中の戦いだった。熊本離脱の事態に小倉藩は長行と相談しようとしたが、長行側近、長行が姿を消していた。家茂死去のため板倉の要請で、長崎経由で大坂に戻り、慶喜将軍就任説得のためとの説もあり。熊本に続き諸藩も撤退、小倉城を自焼し、小倉藩はゲリラ戦に切り替える。責任ゆえか長行解任も一月後に再任。大政奉還後に唐津藩は長行の件で追及され、切腹か謹慎を示され、数歳上の養父長国は代わりに京都で謹慎、また兼ねてから薩長土肥などに石炭を提供していたが、大量に新政府に献上し、戦いを助け、長国の謹慎はすぐに解かれた。長行は東北や函館で戦い、函館新選組に加入、しかし降伏1か月前に姿を消し、湯島潜伏。アメリカ逃亡の噂を流した。長国は廃藩や国債のことを誰よりも早く政府に建言、また唐津に高橋是清を招き人材育成に努めた。
松平定敬、板倉勝静、榎本武揚らの罪が許されたのを見計らってか、長行は東京知事に帰国届けを出し、お咎めなし。家は長行嫡子が継いでいたが、そちらには戻らなかった。
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