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2018年04月16日14:26

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アメリカで思ったこと あれやこれや

なんだかんだと言って

自分は既に30台前半で、既にリタイアした。

というか

「自分の研究したいように研究して生きたいように生きる」

と、

そうできるように計画して、そうできてきた。

というか、

自分は幸せな人間だなぁ

と感じるのは

その頃に自分が一生かけてもやりたいことが見つかったから、

苦渋の選択でもあったけれど

結構 あっさりと出世路線もおりて

自分一人で自分の研究にうちこめたことだ。

ところが、

一生やるはずのことが、ある朝に突然

完結してしまった。

研究してきたことが、

ある朝そういうのとは、全く関係なく

完結してしまい

予定が、いい意味で狂った。

そして、

しばらくしてまた別のやりたいことが見つかったので

また方向転換をして

楽しく人生を送っているのだけれど

久しぶりに

以前の同僚たちに以前の環境であうと

時間がもたない(^^;

別な国なんだけれども

その「別な」ところは楽しくて

「へ〜〜 こんな感じでやってるんだぁ〜」

みたいな意外性や、文化ややり方の違いとかは新鮮で

きてよかったなぁ〜

となるが、

そこまででの興味で

会議、会議、会議、打ち合わせ、打ち合わせ、会食、会食、会食

というのは、

一回久しぶりにすれば、

もう十分にいただきました

という感じで

よんでもらっていてありがたいのだが、

もうこの世界には戻れないなぁ



つくづくと思う。

動物園に飼われていた動物が

外の世界をしってしまった

感じ。

動物園にいれば、食事にも困らないし

適度に長生きできるけれど

なんか生きてる感じがしない

というか

なんか違う

という感覚が抜けない

そんな感じ。

にしても、

自分は、実力は全くない

のに

たまたまの運だけで

なんかしらないが

よくなんか生活できてることに

自分でもびっくり。

自分の同僚たちは、実力にみちあふれているし、

よく働くし、

すごいなぁ



つくづく思う。

だから、いい生活をしていて当然なのだが、

自分は、

実力もなければ、ほぼのんびりまったりとしていて生産性も多分ない

たまに

なんかしらないが、

自分の実力とはかけ離れたところで

ぽっと

なんかイメージがわいて行動することがあって

それが

たまたま

ひっとして

なんかここまできた。

まぐれの

連続



まぐれな人生だなぁ



今回、ほんと凄く勤勉な同僚たちと時間を過ごさせてもらって

動物で言えば

なまけもの



名実ともに属する自分は

既に 

はふぅ〜 

1ヶ月程度ですんでよかった



思いつつ

なんで自分がこんな勤勉なビーバーたちと一緒にいるのか

自分でも運命というか

なんかしらないが

たまたまの偶然に

鍛えられるというか

なまけもの

というか

のんびりをうけいれましょう

という気づきなのか

とりあえず

場違いなところにいて

というか

こういうときに人生について考えさせられる

自分の人生っていったいなんなんだろう

と。

昨日は、同僚の小学5年生くらいの子供たちとかくれんぼをして遊んで

というか

遊んでもらって

というか

同僚の 大人たちの話についていけなくて

かくれんぼに混ぜてもらったのだが、

まぁ

楽しかった。

ひさしぶりに

解放された。

子供達も、自分が親の同僚の大人だということを忘れきって

遊んでくれて

また遊ぼうね〜



なった。

いい大人が子供に混じって楽しむ

って

どうなんだろう



思ったが、

おっちゃんおばちゃんたちのありきたりの話よりも

子供たちとのかくれんぼは

その時 その時の全力のエネルギーなので

新鮮でおもしろくて

自分も全てをわすれて全力でかくれんぼしたので

遊んだあとは

生き返った。

この感覚ですよ

この感覚。

子供のころは、勉強しなくても、塾に行かずともなんかしらないが成績がよかった

大学にはいって初めて宿題を提出しないと単位とれないというのになって宿題をしたが

高校まで、先生に怒られようが、正座させられようが成績が落ちようが、宿題をしたことがなかった

模擬試験以外の授業に関する試験は、聞いてたらなんとかなった

一重に

授業以外は、

缶蹴りだの、かくれんぼだの、散歩だの、自転車だの、バイク乗り、旅行、探検、乗馬、ゴルフ、テニス、バスケ、卓球だのと遊んでいたからだ。

うちの親が

遊ばざらずもの、勉強するべからず

というのをモットーにしない人たちだったので

自分は

それをモットーに遊ぶことを優先してきた

友達にも恵まれてというか

友達の親がゴルフや乗馬が好きで連れ行ってくれたり、テニス場をもっていたりだったのも大きかった

しかし、

ある日から、これじゃだめだちゃんとしない



勉強をはじめてからなんかうまくいかなくなった

楽しみがなくなったからかもしれない

楽しんでいるうちは

物事の吸収がはやいきがする

それを昨日のかくれんぼで思い出した

もっと遊ぼう

仕事しかしないおっちゃんおばちゃんと話してても

10分程度の会話で

エネルギッシュさがわかなくなる

子供とおもいっきりばかをしょうちであそぶと

1時間でエネルギーももらえるし、ストレスもとんですっきりするし

今度はなにしてあそぼうか



意気揚々としてくる

この感覚が大事だ。

そして

今日は街を自転車で回って

白い雪の残るロッキー山脈を

美しいなぁ

壮大だなぁ

きてよかったなぁ



改めて思えた。

明日の ランチミーティングも夜のディナーもどうでもよくなった。

自分がいなくても、他の人たちで物事はまわるのだ。

それよりも、街にみつけた居心地のよいカフェで

お茶とケーキを楽しみながら

のんびりだらりと

本をよむ

とか

近くの国立公園まで

自転車でとばして

野生のアンティローブや鹿をみるとか

そっちのが断然

萌える。

この辺りは

インディアンの祖先が

癒しに来ていた場所でもあって

いわば神聖な場所でもある。

そこに

インディアンを生かさずにおいて

いろんな「文明」という名なの

文明とは程遠いようなやり方で

あれやこれやとつくって

上流の文化だなんだと

やっているが

そういうのなしで

すでに癒してくれてきた神聖な土地なのだから

そんなよけいなものはいらんがな



つっこみたくなるけれど

神聖な土地には変わりないのだから

自然にでて

神聖の恩恵をうけたほうが

かみぎれをもらうよりも

もっと価値があるだろう。

てか、

人間の習性をみているよりも

自然のアンティローップが草をもぐもぐしてるのw見ている方が

自分は

いきいきとさせてもらえる。

自分も一応 人間なのだけれども

こうも人間社会が得意でない。

誰よりも話しをするし

みんなからもかわいがってもらって

みんな話てくれたり、よんだりしてくれるし

自分もその時は楽しいのだけれども

その前後が

同じ人間なのに

人間といると

なぜ

こうにもエネルギッシュでいられないのだろう



哲学的になってしまう。

かといって

アンティローブと暮らすわけにもいかない









美味しい食事と

心地よい空間が

あれば

それでいいのだけれども。。。

本もあり、猫もいて、居心地のいい空間に今回お世話になっていても

はぅ〜 エネルギーもっとほしい〜



世界どこへいってもなんかなじめない自分は

そういうふうに考えてしまう。

まだ1週間残っていて

また直ぐに

今度はスエーデンと思っていたが、

なんだか

意気込みがきえて

なんもないけど

アフリカに行きたい

とか

アフリカにいったらいったで

なじめないのだろうなぁと。

てか

またアメリカに戻るという案もある。。。。

それもやめて

もう

バックッパッカーとして

自由に

いろんなこところへ

気の向くまま

旅行するのもいいかな

とか

早々と引退したわりに

なんだかんだと仕事をさせられてきた

というか仕事してきて

自由がほしくて

早々と引退したのに

自由をたのしんでこなかった

自由だからこそ

自分の中で規制をつくってやってきたこともある

今度こそ

本当に気の向くまま

自由に旅したいなぁと

思ったのだが

一定の環境がないと

楽しめない自分に今回でも気づかされたから

一体どこにいけばいいのか

またまた惰性に流されて

呼ばれるがままに

呼ばれた場所にいくのか

それが

気が向くまま

ということなのか

自由とは

なかなか簡単ではない。

でも

誰よりも自由な環境にいる自分は

自由にもっと

楽しんだ方がいいのかもしれない。











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