mixiユーザー(id:6088356)

2018年04月11日12:36

116 view

最強のツール

2018年03月27日のツイート

ノートの使い方をまた一歩踏み込んでみるか。私は過去、手帳を使ってみようとしたことがあった。手帳が流行ったときに手帳買ったり、手帳術の本とか読んだときはファイロファックス買ったり、ほぼ日手帳とかも買ったりした。しかし、ほぼ使うことはなかった…w

手帳を使わない理由を考えてみるといろいろある。まず、書きにくい。小さくて立体的な形をしていて非常に不愉快。それから、出歩かない。だから何か書くときは別にノートに書く。大きさも形もとても書きやすい。無地のB5のキャンパスノート。

絵とか大きく描けるしスキャンするのにぴったりなのでA4を使おうとしたが結局ずっと使っているB5に完全定着した。知ってますか、昔は無地のキャンパスノートは糸綴じだったことを。罫線のノートは昔から普通に無線綴じなのに。まあ今は無地のもちゃんと無線綴じになっている。いい世の中になってるよ。

ちなみにキャンパスノートのサイトを見ると「無線とじ製本へのこだわり」とか言ってる。「無線とじは、糸とじとは違いその製本には相当な技術と経験を要します。その集大成が無線とじキャンパスノートです」だって。はあ?白々しい。知ってるんだぞ、無地のだけ差別するかのように糸綴じだったのを。

まあ今は無線綴じになってるしお世話になってるから、過去を忘れて自画自賛したい年頃なのも許してやるとするわ。しょうがない。本当に使ってるからな、無地のB5のキャンパスノートは。私にとってこれが最強のツールだから。

落書きもネームも全部これ。昔、学生時代は学校で使うノートにそのまま描くという流れで罫線のノートに描いていた。高校のときルーズリーフが流行ったので無地のルーズリーフに描いてたら、バインダーがかさばるしお金もかかるし、バインダーがないと単なる紙の束になって管理しにくいのでやめた。

スキャニングしやすいのでコピー用紙を使ってみたりもしたけど、とにかくバラバラの紙っていうのが管理しにくいんだよな。ていうかノートが管理しやすい。だから結局ノートに落ち着いた。そんな感じで昔からノートが落書きツールだったわけだけど、そこに上乗せするかのように革命が起きたのが…

「モーニングページ」というエクササイズ。以前は自己啓発本を読むのが好きで、いろいろ読んだ本のひとつに書いてあった。本で読んだ自己啓発のためのやり方で、本当に価値があったのがこの「モーニングページ」。自己啓発できたというより創作力が鍛えられた。アーティストのためのエクササイズだし。

モーニングページというのは、毎朝起きたらなんでもいいから思ったことをノートに3ページ書く、というそれだけのこと。何も書くことがければ「何も書くことがない、何も書くことがない」と書けばいい。簡単でしょ?いや冗談抜きに難しさは何もない。思ったことを、あるいは何もないと書くだけだから。

これにはハマりましたよ。朝だけでなく、昼も夜もずっと書きました。今、ツイッターにこうやってダラダラ書いてるでしょ。完全にこれの影響です。やろうと思えば延々と書いていられます。疲れるか飽きるかしてやめますけど。そうでなければ別に、何かのことをずっと書いていけますよ。

だって簡単だから。思ったことを書けばいいだけでしょ。要するに、訓練によって思ったことが自動で手から出力されるようになる、ということになるのかな。だから、絵ではそれができてた。逆に。イメージしたことをそのまま絵で描ける。普通に。それが字でもできるようになった、ということかな。

なのでこれを私は「字の落書き」と言う。「絵の落書き」に対して。結局文章も同じだったと。書いて書いて書きまくることが上達につながる。一番ダイレクトで着実な方法。これを嫌がる者に明日はない。近道を探して路頭に迷うだけ。目の前のまっすぐな階段を一歩一歩昇るしかないのでした。

というわけで落書きは絵だけのことだったのが、モーニングページをやったら字の落書きも加わった。これがひとつの革命。すると単純な話、漫画というのは絵と字なわけで、たぶんこのおかげでストーリーが「書ける」ようになるわけですよ。

はっきり言って、ストーリーというのは詰まるところ字で書くしかないのだ。いくら漫画が絵で表現するものだと言っても、バリバリ字が書けないと大した話は書けない。バリバリ字を書く人が原作書いて、バリバリ絵を描く人が作画をする。一人でやるのなら絵も字もバリバリに書いていかないとダメなのだ。

モーニングページだけでなく、いろいろとストーリーの勉強をしましたよ。ただ勉強なんて目で見て頭にインプットするだけでいくらでもできる。しかしその成果をアウトプットするには体を使って「書く」という行為をしないことにはどうにもならない。体を使うには絶対にそのための「訓練」が必要なのだ。

だから、絵も字も同じなのだ。もっと言うと「スポーツと同じ」だ。近いところでは音楽も同じだろう。アート・技術というのは、訓練なくしては向上しない。その訓練そのものになるのが落書きしまくることであり、絵でも字でも存分にやらせてくれる、行為の対象になってくれるのが、ノートというわけだ。

一時はパソコンを使ってアウトラインプロセッサとかクリスタでネームとかいろいろやった。しかし結局はノートが最強すぎて戻ってしまった。というか書けない理由は自分にあって、克服しようと自分が向上しその能力を純粋に出力しようとしたとき、一番自由に気持ちよくやらせてくれたのがノートだった。

ノートには専ら、絵のイメージ、アイデア、プロット、ネーム等、漫画のことだけを描くというのが現状。この時点で最強のツールなのだが、それほどまでに使えるものならば、さらに活動を包括的に管理するような、言ってみれば手帳的な役割で使うようにすればもっと生産性が上がるのではと思ったのだ。

妙な例えをすると、生きることがゲームだとして、ノートを開くことはそのコンソール画面を開くこと、としてみようかと。そこからの流れで制作用PCを起動するとか、落書きして自分というマシンのエンジンを暖めるとか、ノートを中心とした管理体系を作ると捗るのではないかという見通しが生まれている。

ノートの使い方をまた一歩踏み込んでみるかと言ったのはそういうこと。人間の脳というのがあやふやで管理のトップとして頼りにならない。消しゴムで消さなければ消えないものでしっかり記録と確認、自由なフォーマットでアナログという無限の情報量、その内容は即漫画に繋がるノート使うのが良さそう。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する