2018年03月17日のツイート
高橋留美子劇場「百年の恋」。欠点は「導入が不自然な突拍子のなさで興味をそそられない」。しかしストーリーは匠の技で作り上げられていた。不要な要素が一切なく、キャラとキャラ、エピソードとエピソードが繋げられていた。これは見習いたい。
主人公が「生き返った老人」という前提だからしょうがないが「思い出の人とそっくりの、危なっかしい若い男を見守る」ことが目的で、観客を同じ気持ちにさせて引き付けて突き動かすようなものがない。迷走家族Fにはあった。こっちは主人公が何もせず勝手に助かったという別の重大な問題があったけど。
どうなるんだ? どうなってるんだ? 勝つか負けるか? これは欲しい!→手に入るか失うか? 成功するか失敗するか? 生きるか死ぬか? といった共感できる目的(でなくても共感させるように描く)を用意しそれは達成できるのか?という興味を持たせる。それが観客を引っ張っていく。そういうの。
この「どうなる?」をセントラルクエスチョンという。目的を用意するのとセット。バトル少年漫画は「勝つか負けるか?」恋愛少女漫画は「結ばれるか分かれるか?」という、ジャンルの成り立ちから鉄板セットになっていいる。だから誰でも描けるし誰でも読める。だから業界・市場が成り立っている。
バトルとか恋愛とか興味なかったり、漠然と何か描きたいと思ったとき、だから適当に描いたって面白くならない(天才でもない限り)。というか描き切ることも難しい。逆にバトルや恋愛を描こうとして描けてしまうのは、それは天才だからじゃなく、それを描こうとする時点で面白くなるに決まってるから。
宇宙戦艦ヤマトの、地球の放射能除去のためにイスカンダルに行こうとするが、行けるのか? 銀河鉄道999の、母の死から長生きしようと機械の体をくれる星に行こうとするが、行けるのか? というのも分かりやすい。無目的にふらふらしてるだけの話を書いても当然面白くなることはない。
主人公はふらふらしてるけどサブキャラに目的があるというパターンもある。これは、実は主人公は表向きの主人公で、目的を担うサブキャラの方が主人公。表向きの主人公がサブキャラの目的に協力することで合流していく。探偵、水戸黄門とか。引いた目で見ればキャラの目的というよりストーリーの目的。
無軌道に話を書いていてもなんとか書き上げた、これは当然推敲しないと。こういう場合大抵ふらふら書いてたらそのうち目的・方向性が見つかってそっちに進んで結果が出たからEND、となってる。ふらふらしてるだけの前半部分を方向性ありきで書き直さないと。それくらいやってあげないと読者が気の毒。
話がダラダラふわふわしてる期間にはリミットがないと。早く何か事件を起こして。主人公とかが日常としてどこにいて何してるどんな奴なのか、コンパクトに読者に知らしめて、もうすぐに事件が起きないと。いくら変なキャラ描いても話は面白くならないから。変なキャラより変な事件起こして面白くして。
宇宙から変なキャラが来たら、変なキャラと変な事件はセットになるけど、「変なキャラが来ました、終わり」じゃ「出オチ」だから。話続かないから。話の主役は話だから。キャラが描きたかったら話なんて書いてないでひたすらキャラだけ描いてれば。でもそれじゃどうにもならんでしょ。話を考えないと。
事件というのは解決するものだから。解決しなくちゃいけないのが事件だから。そう考えると話の方向性ができてくる。どうなっちゃうの?事件を解決する、その目的は達成できるのか? 読者は引っ張られる。「話に引き込まれる」。変なキャラで目を引くのは客寄せパンダ、店が空っぽじゃしょうがない。
店が空っぽでもキャラで興味を引いたら勝ちっていう人もいる。店の中にもパンダがいればいいとか。それで商売が成り立つんだからしょうがないが。それで儲けて偉くなっちゃって。でも自分がそういう作品見せられたら、まるで詐欺に引っかかったような気分になる。そういう作品の2巻以降のつまらなさ。
ストーリーを無理やり3つのキーワードでまとめると「キャラ・事件・解決」になると言ってみる。キャラがいて事件が起きて解決する(かしないか?)。話の目的とセントラルクエスチョンもセットになる。話を長くするなら、最初の事件は氷山の一角で、本当に解決するべき問題が見えてくるようにする。
これはストーリーというもののひとつの見方であり、別にどういう見方でもいいけど、こういう指標みたいのがあると「話を全体で考える」ことができるようになる。例えば書く前にオチが決まる。こういう問題をこう解決する、あるいは解決できなかったけどその代わり…とすれば、それがオチになる。
そうやって話の全体・オチが決まってくれば、じゃあこうなったことで何が言いたいのか、何が言えるのか、が見えてくる。これがテーマ。テーマがない話とは意味がない話。見た意味がない。話にはテーマという宝があるべきだ。テーマが決まるとまた逆算してもっとうまくテーマが表せるような話に作れる。
こういうことを考えるのが、プロットを考えるということ。あらすじ書けばそれがプロットということではない。行き当たりばったりでふらふらして歪だが味のある話も面白いかもしれない。いや普通はつまらなくなるが、天才はそうやって書いたりできるだろう。でも天才ならもっとうまく書けるのにと思う。
行き当たりばったりに見えて頭の中にはプロットがあるのだろう。書かないとやってられないようなことを頭の中だけでできるなら大したものだ。当然頭の中空っぽではできない。頭空っぽなのに行き当たりばったりで面白い話を書くのは宝くじを当てるより難しいと思う。バクチやってないで頭使わないと。
やっぱ短編は面白い。勉強になるのは短編。面白い短編が描けない人が長編描いてもダラダラふらふら山なしオチなし意味なしのつまらない話になる。変なキャラを次々に出すだけの出オチの自転車操業。そんなのゾッとする。短編見て短編描いてしっかり勉強しないとダメ。
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