預言者について考えてみたニャ。
神は常に、人の力ではなし得ない業を世に表し続けられたニャ。
モーセ、アブラハム、イサク、ヤコブ、イエス…。
ここまではほとんどのキリスト教の教会が認めるでしょうねえ。
私は、敢えてここに、ムハンマド、更には、ジャンヌダルクも付け加えて考えたいのニャ。
それだけではないと言う声も、あるいはあるでしょうが…。
ジャンヌダルクがあれだけの力を出し得たのは、神の後ろ盾以外あるのかニャ。
神は、ありとあらゆる場面を用いて自らの力を示されるからニャ。
ジャンヌダルクを、イングランドは異端として退けたニャ。
ジャンヌダルクを正当と認めてしまうなら、イングランドは神の力を見ながら神の御前にへりくだり、全てを神の采配に委ねないとならなくなるだろうからニャ。
ジャンヌダルクはフランス王を戴冠させることで神の力を示すため、神に召された女性だったのかしらね。
もしジャンヌダルクが神に召されていたならば、問題が出てくるニャ。
人々を裁くために地上で神の采配が振るわれるときに、その場で采配を振るうために神の代理に召されるのはいったい誰か、ということニャ。
さらに、神の采配のために召されるのがたとえ誰であっても、神の采配を振るうために神に召された彼らは果たして周囲の人々に受け入れられたか、ということもニャ。
ジャンヌダルクを処刑した人々は、現世の秩序維持を最優先させるため、処刑を実行したのではないか、そういうことかしら…。
その意味では、ジャンヌダルクの死は、イエスの死のリフレィンだったのかもニャ。
私は、そんな気がしてならないニャ。
ジャンヌダルクは、あの段階で死んだが、あるいはそれは神の慈悲だったかも知れませんね。
当時の情勢から見て、ジャンヌダルクは、政争に巻き込まれ、遅かれ早かれ、命を落とすことになったでしょうからね。
そして、死後も彼女の評価は、政争の具にされてしまったことだろうニャ。
あの段階で死ぬことで、彼女は純粋なままでいられたのかもニャ。
国王の戴冠の時点でジャンヌダルクの役割は終わっていたにもかかわらず、勝利の女神として期待されてパリの奪還にまで駆り出されたが、神はジャンヌダルクがこれ以上政争に巻き込まれてしまわないために、身元に召してしまった。
そう思いたくなるような、タイミング、ニャからね。
世の多くのキリスト教の教会は、ムハンマドが神の力を借りられたからこそ、大きな力を発揮出来たことを認めたくないかもニャ。
ムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教に原点回帰を求める神のメッセージを伝え、神の力を借りて多くの困難な戦いに勝利したのニャ。
ムハンマドは戦いに勝利しただけでなく、人々を治める上でも神の導きによって多くのことを成し遂げていますね。
ここでは、それにいちいち触れることはしないけど、神の助けがないとまず無理と言えることを、数々行っているようだニャ。
ユダヤ教やキリスト教にとって、ムハンマドの原点回帰の呼びかけを認めることは、自分たちの堕落を認めてしまうだけでなく、聖書の時代を超えて神がこの世に預言者を召されることを認めることになるニャろね。
ムハンマドの原点回帰の呼びかけが正当性を満たすためには、それが神の召しに基づく言葉である必要がありますからね。
しかも、イサク、ヤコブの系譜以外からさえも、預言者は召されるかも知れないこともムハンマドを認めるなら受け入れることになるのでニャ。
ムハンマドはアブラハムの子孫ではあっても、イサク・ヤコブの系譜ではないですからね。
ムハンマドを預言者として評価することは、預言者にはどういう人達が召されるかという問題を、突き付けてくるニャ。
どういう系譜の人達であっても、神はふさわしいと思われる人達を、預言者に召されるかもしれないということですね。
残念ながら、聖人までは受け入れられるが、聖人とされた彼らは預言者として評価されることはないかもニャ。
だが、聖人として評価された多くの人たちが、もしも人の力だけでなし得ないことをなし得たなら、そこには神の力を認めないわけにいかないのでニャ。
そして、その延長線上に預言者はいますよね…。
だが今、この世の多くの教会には預言者がいないのでニャ。
とは言え預言者は、なりたいからと言ってなれませんよ。
仮に、自らを預言者と名乗ったり、私たちの組織には預言者がいると言ってみても、辛いですよ。
常に正しい判断に基づく行動や発言をしなければいけないと言う重責が、預言者の肩にのしかかっていますからね。
預言者と名乗ったり呼ばれたりしている人達は、その重責に常に耐えられる人でないと務まらないニャ。
軽々しく、名乗ったりできない立場が、預言者なのですね。
祈ることによって、神から支えられることになるニャろけどね。
しかし、一年中、しかも、24時間、祈りを忘れない人でない限り、精神的に耐えられることは無理でニャ。
だから、預言者を名乗ったり預言者と呼ばれたりしている人がいる組織は、非常に少ないわけですね。
神からの御霊によって支え続けられないと、まず、耐えられないのでニャ。
預言者は、基本的には、神に認められ、神に召されないとなれないのニャ。
しかも、それは神から一方的になされるのニャ。
当然、そのような預言者が召されている教会はそう多くないはずニャ。
大半の教会は、人の力で作られ、人の力で運営されているニャ。
祈りによって導きを求めてはいるでしょうけどねえ。
だが、それをどう生かすかは最終的には人の選択と判断によるのでニャ。
果たして、今の時代にも預言者はいるのか。
いるとするならば、それは何処なのか。
逆にいないなら、どうしたら神は預言者をあたえてくださるのか。
その問いに答えてくれている聖句があるニャ。
ヤコブの手紙 1章 5節
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
この聖句が、私たちの答えを得る手掛かりを与えてくれるのかもニャ。
私たちにだって、歴史上の人物たちほどではないにしても、自分の力を超えることを神は可能にして下さるかもしれないですからね。
聖書にはこうあるニャ。
マタイによる福音書 7章 7〜8節
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
答えを、諦めないで求めてみましょうね。
どんな答えが来るか、それは一人一人の求め方次第ニャろけど。
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