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2018年03月14日00:06

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3月14日の日記

今日の出来事:1593年−文禄の役:幸州山城の戦い、1861年−ロシア軍艦対馬占領事件、1953年−衆議院解散(バカヤロー解散)、1965年−イリオモテヤマネコ発見、1970年−日本万国博覧会(大阪万博)が開幕、2004年−掲示板サイト2ちゃんねるに「電車男」の最初の書込みがされる、2015年−北陸新幹線開業

今日は、文禄の役:幸州山城の戦いです。豊臣秀吉の出兵により「文禄の役」が始まると、日本軍は緒戦で占領地を広げました。李氏朝鮮は宗主国の明に援軍を頼みました。明の万暦帝は大軍を派遣し、明の反攻が始まりました。1593年、明の李如松は小西行長の守る平壌を奪還しました。更に南下した明軍は、「碧蹄館の戦い」で日本軍の迎撃を受けて打ち破られ、臨津江を渡って退却しました。一方、全羅道方面では権慄の率いる朝鮮軍が水原の禿城山城を拠点に守備していましたが、明軍による平壌奪回と南進に呼応し、幸州山城へ進出しました。権慄は約4000の兵力のうち、2300を率いて城に籠もりました。残りの約2000を宣居怡に指揮させて、城外の後巻として配置しました。「碧蹄館の戦い」で明軍を退けた日本諸将は協議を行い、漢城近傍に陣する幸州山城を攻撃する事となりました。陣容は「碧蹄館の戦い」に参加しなかった大名を中心に編成されました。1593年3月13日、権慄が漢城方面へ偵察に出した部隊が日本軍と遭遇し、89人を失いました。翌14日、西北の緩斜面から攻撃をする日本軍に対し、退路のない朝鮮軍は高所からの大砲、小銃、弓矢、投石で対抗しました。日本軍は更に火攻めを加えて、出城を奪いました。朝鮮兵は本城まで退却して抵抗しました。城攻めは午前6時頃から午後4時頃まで行われ、日本軍は三度攻めて三度退きました。朝鮮軍は矢が欠乏しそうになりましたが、忠清水使・丁傑が漢江伝いに船で補充を行ったため、事なきを得ました。また全羅道より、船が40隻あまり進出し、漢江より牽制を行いました。吉見元頼の配下、明石輿右衛門・中屋善四郎・戸崎彦衛門が討ち死にしました。日本側では損害の増大と城方の堅守、そして後詰の情勢から攻撃を中止し、包囲を解いて退却しました。都体察使・柳成龍は臨津江北岸の東坡で、幸州山城が攻撃されている事を知りました。付近の朝鮮軍に増援を命じましたが、援軍が動かないうちに戦闘は一日で終結しました。日本軍を退けた権慄でしたが、再攻を恐れて幸州山城を放棄して臨津江を渡り、東坡の都元帥・金命元の指揮下に入りました。

次に、ロシア軍艦対馬占領事件です。ロシア軍艦対馬占領事件は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件です。「ポサドニック号事件」とも呼ばれています。1861年3月14日、ロシア帝国の海軍中尉・ビリリョフは軍艦「ポサドニック号」で対馬に来航しました。尾崎浦に投錨すると測量し、その後に浅茅湾内に進航しました。ロシア艦隊の太平洋司令官であったリハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築く事を提案しましたが、日本との関係が悪化する事を懸念したロシア政府は拒絶しました。しかし、海事省大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可したため、リハチョーフ司令官の命令により「ポサドニック号」が派遣されました。対馬藩主・宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するように抗議しました。しかし、ビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料、遊女を要求しました。4月13日、芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めました。その後、船体修理を名目に工場や練兵場などを建設しました。対馬藩では、武力で排撃を主張する「攘夷派」と紛争を避けようとする「穏健派」で論争が起こり、藩内は混乱しました。宗義和は事を荒立てずに穏便に解決しようとし、問状使を「ポサドニック号」に派遣して不法を何度か詰問しました。しかし、ロシア側は無回答で優勢な武力で日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりして木材、牛馬、食糧、薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えました。ロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、婦女を追跡して脅かしたりしたため、住民は激昂して紛争が起こりました。ビリリョフ艦長は対馬藩に藩主への面会を要求し、5月2日には芋崎の租借を求めて来ました。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑でした。対馬藩では対応に苦慮して面会要求を拒否し、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰ぎました。5月21日、ロシア兵が短艇に乗って、大船越の水門を通過しようするのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致して軍艦に連行しました。その内1名は舌を噛み切って自殺しました。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃して武器を強奪し、数人の住民を拉致して7頭の牛を奪いました。さらに翌日には、水兵100余人を派遣して大船越の村で略奪を行いました。宗義和は「ポサドニック号」に速やかに退去する事を要求しながら、米・塩・薪炭を贈って懐柔を図りました。紛争を避けるために藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造して事態に備えました。また、宗氏の所領の肥前・田代では代官・平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示しました。長崎奉行・岡部長常は、対馬藩に対して紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送りました。幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチに「ポサドニック号」の退去を要求させました。また、外国奉行・小栗忠順を「咸臨丸」で対馬に派遣して事態の収拾に当たらせました。6月14日、目附・溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、6月17日に艦長・ビリリョフと会見しました。この第一回の会談で、ロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求めたため、小栗忠順は謁見を許可する旨を回答しました。6月21日、第二回の会談で小栗忠順は、ロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議しました。6月25日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対して、小栗忠順は前言を翻して謁見は出来ないと回答しました。ビリリョフは猛抗議を行いましたが、小栗忠順は「私を射殺して構わない」と言って交渉を押し切りました。6月27日に小栗忠順は対馬を離れて、江戸に戻りました。小栗忠順は、老中・安藤信正に対馬を直轄領とする事、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行う事、国際世論に訴える事などを提言しました。しかし、老中はこの意見を受け入れず、小栗忠順は外国奉行を辞任する事になります。7月3日、交渉に行き詰まった対馬藩では、藩主謁見を実現せざるを得なくなりました。ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主・宗義和に謁見し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じて長日滞留の恩を謝しました。しかし、ロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案しました。対馬藩側では、幕府に直接交渉して欲しいと回答しました。8月14日、イギリス公使・オールコックとイギリス海軍中将・ホープが幕府に対して、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案し、老中・安藤信正らと協議しました。8月28日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(「エンカウンター」、「リンドーブ」)が対馬に回航して示威行動を行いました。ホープ中将は、ロシア側に対して厳重抗議しました。しかし、この時点でオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していました。また、老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせました。これまで、ビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事・ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察して軍艦「ヲフルチニック」を対馬に派遣し、ビリリョフを説得しました。そして、1861年9月19日に「ポサドニック号」は対馬から退去しました。外国奉行・野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議に基づいてロシア艦が滞泊後の善後処置を行いました。ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管しました。ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保でした。当時、アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていました。

その次に、「バカヤロー解散」です。1953年2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、吉田茂が西村栄一に対して「バカヤロー」と暴言を吐きました。これがきっかけとなって衆議院が解散されたため、「バカヤロー解散」と呼ばれました。直後に吉田茂は発言を取り消し、西村栄一もそれを了承しました。この失言を議会軽視の表れとした右派社会党は、吉田茂首相を「議員としての懲罰事犯」に該当するとして懲罰委員会に付託するための動議を提出しました。3月2日に行われた採決に際しては、自由党非主流派ばかりか、主流派と見られていた広川弘禅農相らの一派も欠席し、懲罰委員会への付託動議は可決されました。さらに追い討ちをかけるように「内閣不信任決議案」が提出され、先の懲罰事犯の委員会付託動議採決で欠席した自由党鳩山派30余名が脱党し、不信任案に賛成したため、3月14日に可決されました。これを受けて吉田茂は衆議院を解散し、4月19日に第26回衆議院議員総選挙が行われる事になりました。

その次の次に、イリオモテヤマネコの発見です。沖縄の本土復帰に先立つ1965年2月、八重山を訪れる事になった動物文学作家・戸川幸夫が、那覇市で琉球新報の記者から「西表島ではヤマネコがいるという噂がある」事を聞きました。戸川幸夫は当時担当していた記事の取材を兼ねて西表島に渡り、ヤマネコの情報の入手や標本の収集に奔走しました。しかし、西表島では食糧不足のため、捕獲されたヤマネコは焼いて汁にして食べるか、捨てていました。このため、ヤマネコの標本の入手は容易ではありませんでした。その後、島の西部にある網取部落を訪れた際、中学校の教師がイノシシ用の罠で捕獲されたヤマネコの死体を入手し、埋めた事を聞きつけました。戸川幸夫はこれを掘り起こし、頭骨を入手しました。また網取り部落付近で、2個の糞を発見しました。同時に、浦内川沿いにあるイナバ部落の漁師が皮を保管しており、これも手に入れました。この3つの標本を手に琉球大学の高良鉄夫のもとを訪れました。これらの標本を、国立科学博物館の今泉吉典のもとに送り、日本哺乳動物学会に鑑定を依頼しました。1965年3月14日に日本哺乳動物学会で、これらの標本の鑑定がなされました。鑑定の結果、新種もしくは新亜種らしいという事になりましたが、標本が足りないため、完全な標本または生体の入手が求められました。1965年6月に戸川幸夫は、生態情報の収集や完全な標本の入手、生け捕りを目標に西表島を訪れました。島南部の南風見田の浜にある、通称“マーレー”と呼ばれる小さな滝の下で、遠足にきていた大原中学校の生徒が怪我をして弱っているオスを発見し、引率の教諭が捕獲しました。別の教諭がこの個体の皮をホルマリン標本に、頭骨や骨格を木箱に入れて学校の裏に埋めました。戸川幸夫らにより掘り起こされ、この個体がイリオモテヤマネコのタイプ標本となりました。その後、由布島で砕けた幼獣の頭骨を手に入れ、今泉吉典により復元されました。戸川幸夫は帰京前に、ヤマネコの生体に100ドル、死体は30ドルの懸賞金をかけ、竹富町長や八重山毎日新聞の協力を得て、西表島の掲示板などで告知しました。1966年12月に仲間川中流域で猟師である黒島宏により、オスの成獣が生け捕られました。1月15日には、仲間山付近でメスの若い個体が捕獲されました。この2頭は、1967年3月20日に東京・羽田空港へと空輸されました。翌日から今泉吉典宅にしばらく飼育されました。その後、戸川幸夫宅で国立科学博物館の委託を受け、約2年間飼育され、生態が観察されました。その後、国立科学博物館に移されて生態が観察され、オスは1973年4月25日に、メスは1975年12月13日に死亡しました。オスの皮は仮剥製に、血は染色体研究用に、その他の体は液浸標本に、メスは本剥製にされて展示されています。今泉吉典は発見者の戸川幸夫の名を取って、「トガワヤマネコ」と名付けるよう提案しましたが、これを辞退しました。「ツシマヤマネコ」に倣って、発見地の西表島の名前を取って名付けるよう提案をし、高良鉄夫の賛成もあり、「イリオモテヤマネコ(西表山猫)」と命名されました。1972年の沖縄変換後に「西表国立公園」に指定されました。2007年には範囲が拡張され、「石垣西表国立公園」となりました。

そのまた次に、「電車男」の最初の書込みです。ネット発の実話ドラマ「電車男」のはじまりの日です。「電車男」は、インターネットの電子掲示板「2ちゃんねる」への書き込みを基にしたラブストーリーです。名称は、投稿した人物のハンドルネームです。「2ちゃんねる」の独身男性板に「男達が後ろから撃たれるスレ」というものがありました。これは、カップル板の恋愛進行中の人々による書き込み(レス)をコピーしてきて貼り付け、彼女のいない独身男性たちを滅入らせるスレッドでした。また、実際に一部のスレッド参加者が恋愛に挑戦して一部始終をリアルタイムで報告し、さらに他の参加者たち(スレ住人)を悶えさせたりする事もありました。このスレッドに、2004年3月14日21時55分に「731」により投稿された一見何気ない書き込み(749)が、物語の発端となりました。彼は「電車(京浜東北線)の中で酔っ払いに絡まれた女性を助け、お礼を言われた」と書きました。さらに数日してから、「助けたお礼にエルメスのティーカップが届けられた」という書き込みをしたため、スレッドは一気に盛り上がり、電車男を応援するスレッドが派生しました。男性は当初、発言番号731を名乗っていましたが、スレッド参加者は電車で運命の出会いをした事から彼を「電車男」、相手の女性をエルメスのティーカップを贈った事から「エルメス」と呼ぶようになり、彼も「電車男」を固定ハンドルにして書き込むようになりました。ネットの住人達(女性を含む)は彼を応援し、「電車男」にいろいろなアドバイスをしました。こうして、リアルタイム純愛ストーリーがネットの住人たちと共に展開されていきました。スレ住人たちは約2か月の間、電車男を応援し、その報告を待ちわび、2人がどうなるかと固唾を飲んで見守っていました。5月9日、「電車男」から「好きだと告白してうまくいった」旨の書き込みがありました。掲示板には多くの祝福のメッセージが寄せられました。しかし、5月17日に性交渉寸前の状況まで書き込みがあったため、独身男性板にふさわしくないと住人の非難を浴びました。「電車男」は同日深夜の書き込みを最後に、独身男性板から姿を消しました。この話はその後、単行本化されてベストセラーになりました。そして映画化され、テレビドラマ化もされました。この「電車男」がヒットした事により、「アキバ系文化」が注目を集める事になりました。

最後に、北陸新幹線開業です。北陸新幹線は、上信越・北陸地方を経由して東京都と大阪市とを結ぶ計画の新幹線です。1997年に高崎駅〜長野駅まで開業し、「長野新幹線」と呼ばれていました。2015年3月14日に長野駅〜金沢駅間が開業し、「長野新幹線」の呼称は「北陸新幹線」に統一されます。「かがやき」:東京〜金沢直通列車(速達タイプ)、「はくたか」:東京〜金沢直通列車(停車タイプ)、長野〜金沢運転列車(停車タイプ)、「つるぎ」:富山〜金沢運転列車(シャトルタイプ)、「あさま」:東京〜長野運転列車(長野新幹線タイプ)があります。2023年春には、金沢駅〜敦賀駅間が開業予定です。

今日の誕生日:ヨハン・シュトラウス1世、徳富蘇峰、アルベルト・アインシュタイン、村上元三、芦田伸介、豊田穣、赤木春恵、大沢啓二、片岡仁左衛門、栗原小巻、五木ひろし、安部俊幸(チューリップ)、杉真理、大内義昭、斉藤とも子、ヒロ松下、山口智充(DonDokoDon)、花田美恵子、TAKAKO(DOUBLE)、大蔵(ケツメイシ)、松田直樹、ほしのあき、ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド、渋井陽子、DJ FUMIYA(RIP SLYME)、出口陽(元SKE48)、黒木華

今日の記念日:ホワイトデー、キャンディーの日、マシュマロデー、数学の日、円周率の日、パイの日、国際結婚の日、美白デー、さーたーあんだぎーの日

今日の「今日訓」:本日は、「ホワイトデー」です。一般的に「バレンタインデー」にチョコレートを貰った男性が、そのお返しとしてキャンディ、マシュマロ、ホワイトチョコレート等のプレゼントを女性へ贈る日です。この習慣は日本で生まれ、中国、台湾、韓国など一部の東アジアでも定着しています。欧米ではこういった習慣はありません。これに便乗して「キャンディーの日」、「マシュマロデー」、「美白デー」、「さーたーあんだぎーの日」となりました。1873年に日本政府が国際結婚を初めて公式に認可した事で「国際結婚の日」、3.14の語呂合わせで「数学の日」、「円周率の日」、「3.14≒π」という事から「パイの日」となりました。
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