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2018年03月07日00:05

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3月7日の日記

今日の出来事:1862年−寅助火事、1866年−薩長同盟成立、1908年−青函連絡船運航開始、1918年−松下幸之助が松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業、1918年−北丹後地震

今日は、寅助火事です。寅助火事は、肥後・人吉藩(現・:熊本県人吉市)で起こった大火です。1862年3月7日の正午頃に、鍛冶屋町にある鉄砲鍛冶・恒松寅助の家から出火しました。空気の乾燥した時期であった事、西北から強風が吹いていた事も手伝い、火は忽ちの内に川北から更に球磨川を越えて人吉城内にまで飛び火しました。650年以上に及ぶ相良氏の人吉治世下で未曾有の大火災となりました。この火災による死者は奇跡的に皆無で、負傷者も3名で済みました。しかし、城内、城下の家屋等に甚大な被害を及ぼし、藩財政、城下の再建、焼失した武器の再編などに影響をもたらしました。この結果、1865年に発生する「丑歳騒動」と呼ばれる藩内抗争へと、飛び火する事になります。

次に、薩長同盟成立です。薩長同盟は、1866年3月7日に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟です。薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界で「雄藩」として大きな影響力を持っていました。薩摩藩が「公武合体」の立場から幕府の開国路線を支持して幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な「破約攘夷論」を奉じて反幕的姿勢を強めました。薩摩藩は、1863年8月18日に会津藩と協力し、長州藩勢力を京都政界から追放しました(八月十八日の政変)。翌1864年、上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させました(禁門の変)。ここに、両者の敵対関係は決定的となりました。「禁門の変」の結果、朝敵となった長州藩は幕府から「第一次長州征伐」を受け、非常な窮地に陥る事となりました。一方で、薩摩藩も自藩の主張する幕政改革の展望を開く事ができず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていきました。長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩藩や土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけた事に始まります。土佐藩の脱藩浪人で長崎で貿易商を営んでいた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により、主戦派の長州藩重臣・福永喜助宅で会談が進められました。下関での会談を西郷隆盛が直前に拒否する事態もありましたが、1866年3月7日、薩摩藩・小松帯刀邸で坂本龍馬を介して薩摩藩・西郷隆盛、小松帯刀と長州藩・木戸孝允が6か条の同盟を締結しました。他の薩摩藩出席者は大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁でした。この密約に基づいて薩摩藩は、幕府による「第二次長州征伐」で出兵を拒否しました。これは、それまで敵対していた両藩を結び付けるという、坂本龍馬という人がいなければ実現しなかった事件です。以後、薩長の連携関係は深まっていく事となりました。薩長同盟の具体的な内容は、「第二次長州征伐」で薩摩藩が長州藩に対して物心両面の援助を約束するものでした。第一条では長州で戦争が始まった場合に薩摩が京都・大坂に出兵して幕府に圧力を加えること、第二条〜第四条で戦争の帰趨に関わらず、薩摩が長州の政治的復権のために朝廷工作を行うことを、それぞれ約束しています。第五条では、薩摩が第一条により畿内に出兵して圧力を加えた上で、橋会桑(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)が朝廷を牛耳り薩摩側の要求を拒むようであれば、彼らとの軍事的対決に至る覚悟がある事を長州に対し表明する内容となっています。

その次に、青函連絡船運航開始です。青函連絡船は、1908年〜1988年までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道連絡船です。青函連絡船は、旅客に加えて船内に鉄道車両をそのまま積み込んで、津軽海峡を渡っていた鉄道連絡船でした。普通運賃:2000円、乗用車の航送は、車の長さが3mまでが9700円、4mまでが12900円、5mまでが16200円、5mを越えると21100円で、航送料金には運転する人1名の運賃が含まれていました。自動車以外は乗船者の運賃別で、自転車は700円、オートバイ・スクーターは125cc以下が1100円、125ccを越えると2200円でした。旅客が1973年に498万5695人を数え、ピークを迎えましたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客の減少などの要因により、1974年以後は減少傾向に転じ、「国鉄離れ」の加速で末期には閑散としていました。しかし、廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えました。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちで、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが「お別れ乗船」のために全国から訪れました。普段であれば冬季は閑散としていましたが、1988年1月〜3月の土日には、臨時便を出すほどの活況でした。1988年3月13日の「青函トンネル」の開通に伴って青函航路は廃止され、青森〜函館間の連絡は「青函トンネル」に委ねられました。現在、旧函館桟橋には「摩周丸」が、旧青森桟橋には「八甲田丸」が保存船として一般公開されています。

その次の次に、松下幸之助が松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業です。松下幸之助は、パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者です。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、「PHP研究所」を設立して倫理教育に乗り出しました。晩年は「松下政経塾」を立ち上げて政治家の育成も行いました。1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主の松下政楠・とく枝の三男として生まれました。家が松の大樹の下にあったところから「松下」の姓を用いました。1899年、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めました。しかし、父には商才がなく店を畳んだため、尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出されました。後に、奉公先を五代自転車に移しました。これが、後のパナレーサー設立のきっかけになりました。自転車屋奉公時代は、店に来た客にタバコを買いに行かされたりしました。その際、いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けばすぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めました。しかし、これが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いをやめました。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようにもなりました。大阪に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電燈(現:関西電力)に入社し、7年間勤務しました。当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外す事ができる電球ソケットを在職中に考案しました。1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学をしました。1917年、大阪電燈を依願退職しました。大阪の自宅で妻・むめのと、その弟・井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手しました。しかし、新型ソケットの売り上げは良くなく、友人2名は松下幸之助のもとを去りました。しかし、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注した事により窮地を脱しました。その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため、経営が軌道に乗りました。事業拡大に伴い、1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所を創業しました。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げました。1929年に「松下電器製作所」への改称と同時に「綱領・信条」を設定しました。1932年を「命知元年」と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った「水道哲学」、「250年計画」、「適正利益・現金正価」を社員に訓示しました。また、事業拡大のため門真市に本社・工場を移転しました。当時、門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていましたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行しました。1935年には「松下電器産業株式会社」へと社名を変更しました。「第二次世界大戦」中は、下命で軍需品の生産に協力しました。1943年4月に「松下造船株式会社」を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造しました。次いで10月には盾津飛行場のそばに「松下航空機株式会社」を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作し、試験飛行を行いました。しかし、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から惨憺たる失敗に終わりました。戦後、GHQによって制限会社に指定され、松下幸之助・井植歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受けました。暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した松下幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する一方、1946年11月には「PHP研究所」を設立し、倫理教育に乗り出す事で世評を高めました。社内留保を取り崩して人員整理を極力避けた事を感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰しました。「PHP研究所」の「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)」の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いのもとに創設された出版社です。1950年以降、長者番付で10回全国1位を記録、また40年連続で全国100位以内に登場しました。この時期の松下幸之助は「億万長者」で、一生で約5000億円の資産を築いたと推定されています。1954年には宿願だったレコード事業参入のため、資本金相当額を投入して「日本ビクター」を子会社化しました。1960年に和歌山市名誉市民に選定されました。同年、浅草寺(東京都台東区)の雷門と大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていましたが、松下幸之助がポケットマネーを寄進して現在の形に再建されました。このため、提灯の「雷門」の下加輪には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく刻んだプレートが貼られています。1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で「松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)」を設立しました。1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退きました。1974年には明日香村名誉村民となりました。1979年、私財70億円を投じて「財団法人・松下政経塾」を設立し、政界にも影響力を及ぼしました。1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、松下記念病院で死去しました。享年94でした。

最後に、北丹後地震です。北丹後地震は、1927年3月7日18時27分39秒に発生した地震です。北近畿を中心に中国・四国地方まで被害がおよびました。被害が集中したのは丹後半島のつけ根にあたる約15kmの範囲です。地震被害が著しかったのは今の京丹後市峰山町、網野町、与謝野町で、家屋倒壊率は70%〜90%に達しました。また、地震発生時刻が夕食時と重なり、火災が各所で発生しました。特に網野町、峰山町、与謝野町では大火となり、合わせて8287戸が焼失しました。最大の被災地となったのは「丹後縮緬」で知られる峰山町でした。住宅や織物工場など家屋の97%が焼失しました。人口に対する死亡率は22%に達しました。この地震による被害は広範囲に及び、2年前の「北但馬地震」で大打撃を受けた豊岡市城崎町でも、火災により2300戸以上が焼失しました。また、震源から150km以上も離れている鳥取県米子でも、2戸の倒壊家屋がでました。さらに、大阪市内では地割れから泥水が噴き出し、家屋が浸水しました。液状化現象が発生しました。被害の総計は、死者2925人(京都府内・2898人)、負傷者7806人、全壊1万2584棟、半壊9443戸、焼失8287戸、全焼6459戸、半焼96戸で大災害へと発展しました。P波初動の分布や地殻変動がはっきりと観測され、この地震を契機に地震学が大きく進展しました。大阪梅田の阪急百貨店では、この地震による食い逃げが莫大な額に達したため、1930年より日本初の「食券制」を取り入れました。この地震の被害を後世に伝えるため、峰山町(現・京丹後市)に丹後震災記念館(京都府指定文化財)が建てられました。

今日の誕生日:佐竹義重、狩野探幽、松浦静山、西周、児島惟謙、ラインハルト・ハイドリヒ、河内桃子、上條恒彦、谷垣禎一、岡まゆみ、オール阪神(オール阪神・巨人)、尾崎加寿夫、高市早苗、広田玲央名、櫻井敦司(BUCK−TICK)、矢沢あい、王理恵、チャン・ドンゴン、川越達也、羽田惠理香(元CoCo)、長谷川博己、馬渕英俚可、山川恵里佳、永山絢斗、菊池風磨(Sexy Zone)、矢作穂香、田野優花(AKB48)、羽賀朱音(モーニング娘。)、キョウエイタップ、マイシンザン、ワンダーパヒューム、ビワハイジ、メイショウサムソン

今日の記念日:消防記念日、サウナの日、メンチカツの日、十歳(ととせ)の祝いの日、さかなの日

今日の「今日訓」:本日は、1948年に「消防組織法」が施行され、明治以来警察の所管とされていた消防が警察から独立して消防庁の所管となった事で「消防記念日」、「3と7でサウナ」と読む語呂合わせから「サウナの日」、関西ではメンチカツの事をミンチカツと呼び、「3と7でミンチ」と読む語呂合わせから「メンチカツの日」、10歳の子供の成長を祝う行事「二分の一成人式」、3月は年度替わりの月で「3と7を足すと10」になる事から「十歳(ととせ)の祝いの日」、「3(さ)か7(な)」の語呂合わせで「さかなの日」となりました。
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