わたしが初めてヘーゲルを読んだのは大谷大学文学部哲学科三回生編入学をした年だったと思う。
哲学科のカリキュラムに「哲学科講読」という必須の授業があって、訓覇曄雄先生がヘーゲルの『精神の現象学』を読んでおられたので、わたしもその授業に出ることにした。
文学部哲学科三回生編入学を果たしたわたしにとって、文学部の二年間はとにかく�犖豎悗僚�得�瓩膨匹錣譴詁�々が続いた。一般教養課程のドイツ語が二コマ、哲学科の二回生必須科目である「基礎講読」、そして「古代ギリシア語」「ラテン語」「フランス語」等などで、毎日が朝一講目から夕方五講目まで、ぎっしりと授業が詰まっていたことを思い出す。
そんななかで、わたしはヘーゲルの『精神の現象学』を原書で読むことになった。ちなみにわたしは短期大学部仏教科時代にドイツ語の文法だけは習ったが、ドイツ語の購読の授業は受けていなかった。そんな授業はなかったのだ。
したがってわたしにとってみれば、いきなりのカントでありヘーゲルであった。ヘーゲルの『精神の現象学』を樫山欽四郎『世界の大思想 精神現象学』(河出書房新社)と金子武蔵訳『精神の現象学』(岩波書店)戸を参考に訳していくしかなかったのである。
当時、訓覇曄雄先生はゼミナールでカントの『純粋理性批判』を読んでおられ、わたしはあのカントの�牋�戦苦闘�瓩靴覆�らも、なんとか訳していた。そのカントの悪文に比べれば、ヘーゲルの文章は訳しやすかった。
しかしわたしにはカントの人間理性を�犲�己批判�瓩靴討修慮続Δ鯡鐶乏个瓩茲Δ箸靴燭里紡个靴董▲悄璽殴襪凌祐崟鎖世鬮狎簑仞鎖性瓩砲泙嚢發瓩茲Δ箸垢襪箸海蹐法�言いようもなく、�猥�慢さ�瓩�見えて好きにならなかった。
学生時代のわたしは、ヘーゲルにそんな印象を持ち続けた。今回、氷見潔さんの『カント哲学とキリスト教』を読んで、若き日のヘーゲルはカントの�猴�性哲学�瓩乏悗咫△修海魑�点としてカント哲学を克服していくことにおいて、あの膨大な哲学体系を構築していったということを改めて感じ取れたのである。
かつて京都大学文学部哲学科宗教学助教授で、現在は日本哲学史の主任教授である藤田正勝さんの博士論文が『若きヘーゲル』であった。どうして宗教学の助教授の博士論文のテーマが「若きヘーゲル」なのかということに疑問をもったことがあったが、その疑問も氷見潔さんの『カント哲学とキリスト教』で溶けたように思えた。
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