日本人の多くは、議論の仕方を知らなすぎるように思えるのニャ。
「弁証法」と言う言葉や思想があるニャ。
弁証法とは「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じて物事は展開し発展する」と言う考えを表しているニャ。
似た発想は、実は古代思想の陰陽にもあるニャ。
「対立する立場や要素同士が、対立しつつ相互に依存しあい、相互に依存しあいながら対立しあうことを通じで物事は展開し発展する」ありさまを「弁証法」と言うのは建設的な議論はまさにこの様なものだからなのニャ。
論破は議論の一つの側面だが、議論のすべてではないのニャ。
日本人はこれを知らなすぎでニャ。
これは日本人の集団の原点が、親子や兄弟に代表される上下関係だからではないかニャ。
このような関係では、相手を従わせることは相手の意見を論破し封じ込め黙らせるしかない、どうニャ。
集団の方針を徹底させることが最優先な場では、自由な意見交換は結束を乱すとして排除されてきたのではないかニャ。
自由に意見を述べさせていると言う人もいるでしょう。
それでは、彼らが出した意見は、どれだけ決定に反映されているのかニャ。
言いたいことは一応言わせたし、聞いてやった、文句あるかという口実にしてるのではないかニャ。
論破か服従が全て、これでは議論するという文化が生まれる余地は少ない、そう思えないないかニャ。
欧州世界で弁証法と言う発想が芽生えたのは、社会は独立した個人の集合だったからニャろね。
独立した個人の集合である社会の場合、論破と服従ではかえって新たな対立と混乱の火種を抱える結果となるニャろね。
みんなの納得するより良い意見に議論を収束させ丸く収める必要があったからだ、そう思えるニャ。
そのために弁論術が発展してきたのかもニャ。
より説得力をつけ主導権を得る事が、議論では大切になってくるにゃ。
議論に説得力をつけるには、何よりもまず論理的でなければならないのニャ。
感情的議論は水掛け論に終わるニャ。
哲学は、議論を戦わせる人達に論理と言う便利な道具を与えたニャ。
弁証法と言う発想もこういう世界だから生まれてきたのかもニャ。
議論も万物を貫く哲学に従う方が好ましいからニャ。
議論に普遍性があるかないかで、説得力に大きな差が出てくるにゃ。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
18世紀のフランスに生きた哲学者ヴォルテールの言葉ニャ。
言論の自由は、これくらいの覚悟があってはじめて守り通すことができる、違うかニャ。
多くの人たちがこの気持ちを共有できてこそ、言論の自由は本物になる、違うかニャ。
このような考えが当たり前になれば、意見を言う事も命がけではなくなりますよね。
「私はあなたの意見には反対だ、だからあなたには黙っていていただきたい」
たとえ言葉で言わなくとも、無言の圧力が周囲からかかるようでは、ちょっとした感想でさえ言うのは命がけに近くなる、違うかニャ。
今、漫才師の村本大輔氏の発言が多くの人たちによって取り上げられて、賛否両論が出ているニャ。
だが、村本大輔氏の意見を批判してる人の多くは、お前の意見を私に押し付けるなと言う立場に見えるのは気のせいかニャ。
だが、村本大輔氏は自分の思いを言っているだけで誰にも押し付けてはいないのではないかニャ。
むしろ批判している人たちの方が、自分の意見に村本大輔氏は従えと押し付けているようにさえ思えてくるニャ。
どうかニャ。
あるいは、芸人は芸だけしてればいい、余計なことは言うなと言わんばかりの声もあるようニャ。
多分その人も、何々の分際でそのような口をきくか、黙って従っていればいいという環境に飼いならされてしまっているのではないかしら。
そんな気がしてなりません。
例えば、村本大輔氏の「殺すくらいなら殺される方を選ぶ」と言う発言に賛否があるニャ。
私はそれは嫌だという人は、その考えを押し付けるなと言う意見が多いように見えます。
内容の是非以前に、私は従うのまっぴら御免と門前払いしているんじゃないかしら。
彼の議論に勝とうとしているとさえ思えるの。
村本大輔氏は自分はこうしたいと言っただけで、あなたもそうしてくれとは言っていない、違うかニャ。
意見を言うこと=押し付け、ならだれもモノが言えなくなるじゃないですか。
日本人ももっと、議論をするとはどういうことか、一から学びなおす方が良いように思えるニャ。
違うかニャ。
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