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2017年11月24日10:24

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「主人公」とは何か? ―― アニメ『妖怪人間ベム』をめぐって

アニメ『妖怪人間ベム』(1968〜69年放映)の主人公は、ベロであって、ベムではない、と主張する人がいます。

ベムとベラを含めた、妖怪人間の三人が主人公であることも否定し、タイトルが『妖怪人間ベム』であることの意味も気にせずに、ベロが主人公だと言い張って譲らない。

その人とは、私のつぶやきのコメント欄(http://mixi.jp/view_voice.pl?owner_id=65880466&post_time=20171119214400&from_param=list_notification_action_comment)で、意見を交わした、「ハーバーセンターくん」(http://mixi.jp/show_friend.pl?id=7207972)さんです。

事の発端は、mixiニュース「タイトルから主人公を勘違いしがちな作品ランキング」(http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4866072&media_id=45)に、次のように書かれていたことからです。

『ライトノベル『涼宮ハルヒ』シリーズが原作のアニメで、そのクオリティの高さから爆発的な人気を誇ったこの作品。変わり者のヒロイン“涼宮ハルヒ”を中心に、その周囲で巻き起こる様々な出来事を男子高校生“キョン”の視点から描いています。
タイトルから涼宮ハルヒが主人公だと思っていたという人が多数。見たことがない人は主人公の“キョン”という名前を知らなかったという人がほとんど。主人公を勘違いしていた人が多く、2位となりました。』
『人間に憧れる妖怪人間“ベム”“ベラ”“ベロ”の三人がいつか人間になることを夢見てこの世の悪と戦うストーリー。「早く人間になりたい」という三人の合言葉が有名です。
この作品の主人公はベムではなく、実はまだ幼いキャラクターのベロ。タイトルから勘違いしていたという人が多く、3位となりました。』

要は「ヒロインハルヒは主人公ではなく、視点人物であるキョンが主人公である。ベムが主人公ではなく、ベロが主人公だ」と「限定」してしまっているのです。

私は、これに対して、

『この記者、「主人公」の意味がわかってないようですね。『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公は、ハルヒで正解。キョンは視点人物、あるいは語り手であって、ハルヒをさしおいて主人公とは呼べない。『妖怪人間ベム』も、ベムまたは三人が主人公。』
http://mixi.jp/view_voice.pl?owner_id=65880466&post_time=20171119214400&from_param=list_notification_action_comment

と書きました。

これに対して、ハーバーセンターくんさんは、この記事の記者が書いているとおり、主人公はベロで、ベムは主人公ではないとの主張を、私のつぶやきのコメント欄に書き込み、私と議論(?)になりました。

私は当初「語り手あるいは視点人物が、必ずしも主人公にはあらず」という事実を示すために「シャーロック・ホームズ」譚を例示しました。
ホームズ譚(『シャーロック・ホームズの冒険』ほか主たる作品)は、読めばわかるとおり、視点人物であるワトソン博士の叙述を通して、名探偵ホームズの活躍が描かれる、ホームズが主人公の作品です。
この作品を、ホームズとワトソンのコンビが主人公だとする意見もあるし、そうした立場も間違いではない。前述のとおり、私も『妖怪人間ベム』について『ベムまたは三人が主人公。』と明記しています。

ですから、小説またはアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公は、ハルヒとキョンのペアだと考えるのなら、何ら問題はありません。
しかし、ハルヒは主人公ではない、キョンだけが主人公だと、この記者のように「限定」してしまったら、これは間違いてす。
だからこそ、私は、このニュース記者の書き方が、粗雑であり無責任だ、と批判しました。

『妖怪人間ベム』についても、問題は同じです。
「ベム、ベラ、ベロの妖怪人間三人が主人公」だという意見は間違いではない。
しかし、ハーバーセンターくんさんのように「ベロが主人公であり、ベムは主人公ではない」としたら、これは間違い。

そこで、ハーバーセンターくんさんに、ベロが主人公であり、ベムが主人公ではないとする「根拠」を尋ねたところ、ハーバーセンターくんさんは、こう答えました。

『終始ベロを取り巻く視点で動いているからです。』

ハーバーセンターくんさんの示した「根拠」は、これだけです。

そこで私は、繰り返して説明をしました。

『視点人物イコール主人公、ではありませんよ。その実例として、ホームズとワトソンの実例をあげたのです。主人公はホームズ、またはホームズとワトソンコンビだとは言えても、ワトソンが主人公で、ホームズは主人公ではないと書いたら間違いです。もちろん視点人物が主人公の場合も多々あります。』

これで、普通の人なら議論は終わりでしょう。
しかし、ハーバーセンターくんさんは、この説明が理解できなかった。
そこで私は、なぜベムが主人公でなければならないのか、について説明しました。

『ベムは物語のテーマを体現すると倫理的な主人公であり、ベラはそれと対照的な「人間的な欲望に流されがちな」人物です。ベロは、この二人の対立を視聴者に提示して見せる、視点人物です。』

『ですから、この物語はベムがいなければ成立しないし、ベラがいなければ単調な説教話になる。ベムとベラだけで、ベロがいなければ、物語が重くなりすぎて、子供が視られない作品になってしまいます。三人の存在は、それぞれそういう意味を担っています。』

こう書いても、ハーバーセンターくんさんは理解できない。
そこでさらに、

『ベムがいなければ『妖怪人間ベム』という作品は成立しませんよ。仮にベムが登場しないお話を作ったとしても、それはベムが主人公の『妖怪人間ベム』という作品を踏まえたスピンオフ作品か、まったく別の作品ですよ。』

と説明しても、やはり理解できない。
もうこのあたりで、ハーバーセンターくんさんには、理解能力が無いか、意地になって自説に固執しているだけだろうと思いましたが、他の読者への説明として、私は説明を続けました。

『終始登場したいるからとか、公式(※ホームページやwiki)にそう書いてあるから、彼が主人公だという考え方は、形式主義であり、心(中身)を問わず、人間は生物学的な人間が人間だ、という、『妖怪人間ベム』という作品が批判した考え方です。難しいでしょうか?』

これはどういう意味か?
わかる人にはわかりきった話ですが『妖怪人間ベム』という作品に詳しくない方のために、解説しましょう。

『妖怪人間ベム』とは、妖怪人間のベム、ベラ、ベラの三人の物語です。

「妖怪人間」と表記されますが、彼らは、いわゆる「妖怪」ではありません。彼らは、人間によって作り出されたヒューマノイド(人型生物)です。

彼らは、日頃は人間の姿をしています(ベムは成人男性、ベラは成人女性、ベロは少年。ちなみに人間形態の時でも、手の指は三本)が、人間に災いをなす悪の妖怪と戦う時には、妖怪めいた怪物の姿に変身します。
と言いますか、彼らの本来の姿は、こちらの方なのですが、怪物の姿をしていると、人間から恐れられるので、日頃は人間の姿に変身しているのです。

彼らは、姿こそグロテスクなものの、心は人間そのものであり、むしろ普通の人間よりも「正義の心」を持った存在です。だからこそ彼らは、その身体能力を生かして、人間のために、人間に祟りをなす妖怪と闘います。

しかし、多くの人は、ベムたちが自分たちのために戦ってくれても、その怪異な本来の姿(や、三本指)を見た途端、彼らを怪物・妖怪の類い、異形の者として恐れ、差別迫害をします。

この、恩を仇で返すような、不当な扱いに、子供であるベロな傷つき悲しみますし、ベロの悲しみを見て、ベラは差別者である人間に対し、時に怒りをあらわにします。

しかし、ベムは、そんな人間たちの無理解に堪えることを、ベラとベロに説きます。「人間たちの無理解を恨んではいけない。俺たちは姿こそ醜いが、心は人間なのだ。だから人間のために妖怪と戦って善行を重ねていけば、きっと人間になれるはずだ」と。

なぜ善行を重ねていけば人間になれるのか、その根拠は、作中では語られません。
しかし、ベムたちは、そう信じて妖怪退治の旅を続けます。
――これが『妖怪人間ベム』という作品の概要です。

しかし、この物語は、最終回にどんでん返しがあります。
それは、ベムたちがいかに人間のために妖怪退治の善行を重ねても、それだけでは人間になれないということが判明するのです。

ただし、彼らが人間になれる方法が、一つだけあることがわかります。それは、生きている人間の体に、彼らの魂を移すという方法です。
つまり、人間を犠牲にして、その体を乗っ取るという方法です。

長い間、人間になることを夢見て、人間のために戦ってきたベラは、この事実を知らされて、せめてベロだけでも人間にしてやろうとベムに訴えますが、ベムは「それは間違っている。そんなことをやってしまえば、体は人間になれても、俺たちはもう人間ではない化け物になってしまう」とベラを説得し、完全な人間になることを断念します。
そして最後のシーンでは、三人は焼け崩れる建物の炎の中で消えていきます。
彼らは死んだのか、生きているのかをハッキリ示さずに、この物語は幕を閉じます。


さて、この物語が、視聴者である子供たちに伝えたかったメッセージ、あるいは作品テーマとは何でしょうか?

まず「差別はいけない」ということでしょう。
ベロは、子供らしく友達か欲しいだけなのに、せっかく出来た友達も、しばしばその親によって引き裂かれます。
同作のエンディングテーマ「ベロはともだち」の歌詞には「だけど大人は、あんな子供と、遊んじゃダメ、付き合っちゃダメと、何でもかんでも怒るんだ」(http://j-lyric.net/artist/a0543ca/l02217b.html)とあります。
これは、ベロが貧しそうな身なりであったり、指が三本の異形であったりするからで、本来の姿を知らずともなされる差別であり、これは視聴者の現実世界での差別と直結する問題でした。

しかし、こうした差別問題よりも更に深く本質的なテーマは「人間とは何か(人間の条件とは何か)」という、じつに哲学的な問いでした。

前述のとおり、ベムたち三人は体こそ異形でしたが、心は人間そのものであり、並みの人間より美しい心を持っていました。しかし、その体の故に、人間たちから心無い差別を受け続けました。
ここで問題となるのは、「体は異形だが、心は美しい人間」と「体は完璧だが、心は汚い人間」の、どちらが「より人間らしい」と言えるのか、という問題です。

この問いに「そりゃあ、心が大切だろう」と答える人は多いでしょう。
しかし、例えば「先天的な障害で、四肢が不自由であり、知能も幼児並みで、社会への貢献はゼロに等しいが、しかし無垢な魂の人間」と「人を人とも思わない傲慢な性格だが、容姿端麗才気煥発で多くの富を社会にもたらすような人間」の、どちらが「より人間らしい」か、「より尊重されるべき存在」か、と問われた時、何の躊躇もなく、前者を選び、その言葉どおりの行動をできる人が、いったいどれだけいるでしょうか?

現に、ナチスドイツにおいて徹底された「優生学」の問題は、今でも解決などされてはいません。

ナチスドイツは、金髪碧眼の典型的なドイツ民族こそ、生物学的に最も優れたアーリア人種であると主張する一方、ユダヤ人を人類の血を汚すだけの劣性民族と決めつけて、ユダヤ人の絶滅計画を実行に移しました。
ナチスは、ユダヤ人だけには止まらず、ロマ(ジプシー)、知的障害者、精神病者、同性愛者などをも差別迫害し、断種したり、ユダヤ人と同様に、絶滅収容所に送って抹殺したりしました。

たしかに、ナチスのやったことは極端だったでしょう。
しかし、ナチスと同じような考えを個人的に持っている人なら、今の日本にもいくらでもいます。
例えば、在日朝鮮人や外国人、あるいは部落差別被害者を、言葉と暴力で攻撃したような人たちなどがそうです。
彼らは、国家権力と結びついてはいなかったから、虐殺こそ実行しなかったものの、現に「朝鮮人を殺ろせ」なんてことを公言するような人たちでした。
そして日本人はかつて、国内でも朝鮮人の虐殺をおこなった実績のある、そんな民族なのです。

話を『妖怪人間ベム』に戻しましょう。
「自分たちが人間になれなくても、たとえ他人の犠牲になろうとも、またそれでも差別され続けようとも、人間として倫理的に正しい道を選ぶべき」だという「ベムの主張」は、極めて理想主義的に倫理的なものであったと言えるでしょう。

ですが、俗に言う「聖人君子じゃあるまいし」そんな生き方をやれる人間など、めったにいるものではありません。
『妖怪人間ベム』の制作スタッフだって、そんな聖人君子のような人は、ほとんどいなかったでしょう。

しかし、それでも薄汚れた大人たちは、視聴者である子供たちに「理想」を語らなければならなかった。
その理想の実行が容易でないことは百も承知で、それでも期待を込めて、理想を語らずにはいられなかった。

ですから、こうした「理想主義的なテーマ」を体現するベムの名を、そのタイトルに冠しながらも、しかし、そう理想どおりにはいかない人間的な感情を代弁させる存在としてベラを立てることで、ベムの一方的な説教には終わらない、物語としても厚みを持たせ、同時に子供キャラであるベロの視点で物語を展開することにより、重いテーマを内包しているにもかかわらず、視聴者である子供たちが、無理なく物語に入っていけるように工夫された、ベムを頭とした三位一体を成す「主人公」が構成された作品、それが『妖怪人間ベム』という名作アニメだったのです。

つまり、このように『妖怪人間ベム』という作品のテーマや中身をきちんと理解しておれば、ハーバーセンターくんさんのように「ベムではなく、ベロが主人公だ」とか「ベムがいなくても『妖怪人間ベム』は作れる」とか「リメイク版アニメのように、指が5本に変えられても『妖怪人間ベム』という作品は作れた」などという寝言は、とうてい言えるものではないのです。

『妖怪人間ベム』という作品は、深く重いテーマを扱った作品です。ですがまた、決して難解な作品ではありません。なにしろ子供向けに作られた作品なのですから、こうしたテーマを理路整然と説明することまでは出来ないまでも、多くの子供たちはこの作品のテーマを理解していたはずなのです。「ベロが可哀想。見かけだけでベロたちをバケモノ呼ばわりする大人たちは、何と頭が固く、心無い人たちなのだ」と、そう思ったはずです。

しかし、ハーバーセンターくんさんは、この程度の理解も無かった。だから「ベムがいなくても『妖怪人間ベム』という作品は作れた」などと言えるのです。

たしかに、リメイク版がそうであったように「似たような作品」「ひとまずタイトルは同じ作品」は作れるでしょう。
しかし「人間とは、まず人間的な心の美しいさこそが大切なのだ(人間の条件なのだ)」という、ベムが体現する「高度に倫理的なテーマ」は、ベムのような存在無しに描くことは不可能であり、その意味で「ベムのいない『妖怪人間ベム』は、『妖怪人間ベム』ではなく、『妖怪人間ベム』もどきにしかならない」のです。

つまり「外見(姿・形・タイトル)」が『妖怪人間ベム』であろうと、ベムが体現した「姿形ではなく心こそ大事」という「心(精神)」を失ってしまったら、それはもう『妖怪人間ベム』という名作ではなくなってしまうのです。
しかし、ハーバーセンターくんさんには、それがどうしても理解できなかった。なぜでしょうか?

それは、ハーバーセンターくんさんが「外見」を見ることしか出来ず、作品の「心」であるテーマを読みとり感じとる、感性や知性を欠いていたからです。

まただからこそ、ハーバーセンターくんさんは、ベロを主人公だと主張する根拠を尋ねられても、

『終始ベロを取り巻く視点で動いているからです。』

と、形式的つまり外見的な根拠しか示すことが出来なかった。

そして、私の説明を理解することも出来ず、逆に「説明が無い」などと的はずれな注文をくり返すしかなかったのです。

しかし、「外見」が大人でも、「頭の中身」が幼児並みの人に、『妖怪人間ベム』という作品の、十分に「哲学的」で「批評的」なテーマを理解してもらうことは、不可能でした。
その努力は、いわば物理的に不可能なものだったのであり、かえってハーバーセンターくんさんの劣等感を刺激して「哲学とか批評とかは関係ないだろう。自慢話をするな」と苛立たせるだけだったのです。

物語における「主人公」とは何か?

それは、登場人物の中で、最も出番の多い人物(人間以外も含む)であることが、多いでしょう。だから、語り手や視点人物が主人公である場合が多いのは事実です。
しかし、これは数的な結果論であって、なんら「主人公」の意味を説明するものではありません。

物事の本質や真実といったものは、多数決で決められるものではないし、その意味で、外見的・形式的には決められるものではありません。

「主人公とは何か?」という問いは、「主人公」と呼ばれるものの「意味」、つまり「中身・本質」を問うているのであり、その意味で、まさしく哲学的・批評的な問いなのです。

しかし、頭を使わない、頭を使って中身を問うことをしない、問うことができない人に出来るのは、外見的特徴を捉えて、それを絶対化する(断定断言する)ことがだけてす。
曰く、ユダヤ人、ロマ、同性愛者、知的障害者、精神病者、あるいは、異教徒、野蛮人、黒人、あるいは、朝鮮人、特殊部落民、あるいは共産主義者、新興宗教信者、あるいは「終始、目立っている人間」あるいは、その逆、などなど。

こうした物の見方に共通する特徴とは、前述のとおり、外見や外見的な属性をもって、その価値を測り、個々の内面を問わない、という点です。

「主人公」という言葉を使う際には、便宜的に、一面的な意味で、その言葉を定義して使うことになるでしょう。

しかし「主人公」という「言葉」の指示するものは、抽象的な概念であって、決して厳密かつ決定的に定義できるものではありません。
また、だからこそ「主人公とは何か?」と問われた際には、便宜的な定義の問題ではないのだということを理解した上で、「主人公」という言葉の指示するものの「本質」を、哲学的・批評的に問わなければならないのです。

しかし、それが出来ない人がいるというのも、また事実。
その実例が、ハーバーセンターくんさんです。

しかしまた、私たちは多かれ少なかれ、ハーバーセンターくんさん的な頭の弱さを持ってもおり、それは程度の問題でしかありません。
だから、私たちはハーバーセンターくんさんを「反面教師」として、見かけだけにとらわれない、知性と洞察眼を身につけなければならないのでしょう。

なぜなら、「私」という物語の主人公は、いつでも、それぞれの私自身だからです。

私が中身のある主人公にならないかぎり、いくら知ったかぶりをして見せても、内容空疎な主人公の物語としての人生は、語るに値しない、お粗末なものとならざるを得ない。

中身のない主人公の場合、彼がいかに派手に動き廻ろうとも、彼の物語(人生)は、結局「駄作」とならざるを得ないからです。
――――――――――――――――――
【後書き】
ちなみに、ハーバーセンターくんさんは、私のところへは何十回もコメントを書き込みして、言いたい放題だったくせに、私が、このやり取りをハーバーセンターくんさんの方の伝言板に報告に行く告げたところ、最初は、

『こんなものを晒すと、恥をかくのはあなたですよ。「妖怪人間」の下りは全部削除しないとwww』

などと下品に強がっていましたが、最後は下のような「捨て台詞」を残して逃げました。

『もう議論にもなってないので、終了させてもらいます。アクセスブロックしておきました。』

これへの私の返信コメントは、次のとおり。

『やっぱり逃げましたね。ご自分は好き放題にデタラメを書き込んでおきながら、こちらが書き込みに行くと言った途端、自分のマイミクに知られたくないとブロック。貴方は、頭が悪いだけではなく、卑怯者だと立証されました。』

ともあれ、私とハーバーセンターくんさん、さらに幾人かの人たちのやり取りは、「恥ずかしくなければ削除しないで下さい」と私がお願いして、私のつぶやきのコメント欄(http://mixi.jp/view_voice.pl?owner_id=65880466&post_time=20171119214400&from_param=list_notification_action_comment)に、今はすべて保管されていますので、是非そちらをご参照ください。
コメント数は合計で100を超えていますが、一文一文は短いので、ぜんぶ読んでも、それほど時間はかからないはずです。

卑怯者のハーバーセンターくんさんが、ご自分の「恥ずかしいコメント」を削除しないうちに是非。

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