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2017年11月21日05:54

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意識(3)

ジャクソン(Frank Jackson)の反物理主義的な論証:知識論証(The Knowledge Argument)(F. Jackson, ‘What Mary Didn’t Know’, Journal of Philosophy, 83, 1986, 291-5.)
 私たちはバラが赤いと思うし、その赤さを感じることができると思っている。つまり、私たちは赤を経験できると思っている。一方、科学は的には可視スペクトルが連続であり、私たちが経験するような色の違いが予め組み込まれている訳ではないことを示している。さらに、私たちとは違う生物はスペクトルを違ったように区分することも知っている。すると、ある対象の色は何かと問われた場合、その答えに対応する一つの科学的な事実はないことになる。しかし、色は幻覚や夢とは違って、「主観的なもの」ではない。人が異なれば色が異なるといったものではない。
 では、色は一体何なのかということになる。あるスペクトルの範囲が生存と繁殖のために視覚システムによって識別される必要があったので、色を見るという能力が自然選択によって進化してきた。ある色と結びついた内部のシグナルが経験の質的な内容である。これがデネットの答えである。感覚質はシステムの中で機能的な役割を演じる内部状態に還元されている。デネットだけでなく、このように考えるのが正統的な機能主義者である。しかし、感覚質は内部状態に還元できないと考える者もいる。機能的でない、感覚質の存在を擁護する論証の代表がジャクソンの考えた知識論証である。
 ジャクソンは次のような思考実験を考案した。メアリーは完全に白黒だけの世界で生まれ、育てられ、有能な神経科学者に成長した。彼女の専門は視覚の神経生理学であった。色の知覚に関して知らなければならないあらゆる物理的な事実を彼女は学んだ。物理世界の見た目の完全さは、物理世界が物理的な出来事の因果的な生起から成り立っていて、それ自身は物理法則に従わない、独立の心の領域などどこにも存在しないことを示している。これが正しければ、世界に関する物理的な知識は世界に関する知識のすべてであることになる。物理主義の主張によれば、色の知覚に関するあらゆる知識はメアリーのもっている知識に含まれていることになる。そこで、ジャクソンは次の問いを出す。

「メアリーが白黒の世界から開放されて普通のカラーの世界に身をさらした時、彼女は「色」がどのようなものか学ぶのではないか。」

そのような学習によって新しい知識が得られとしたら、それは物理主義的な知識ではない。というのも、彼女は既に色に関する物理的知識をすべてもっていることになっているからである。
 この思考実験を論証の形に整理すると次のようになるだろう。

メアリーはモノクロの世界で物理的な世界についてのすべての知識を習得した。したがって、色の経験はないが、色についての物理的な知識はもっている。
物理主義は、世界についての知識は物理的な知識であると主張する。
しかし、メアリーは色の感覚質を知らない。
したがって、物理主義では知ることができない知識が存在する。

(問)ジャクソンの論証についてあなたはどう思うか。メアリーは最初に色を見たとき、何を経験するのだろうか。

(ジャクソンの批判への反応)
 ジャクソンの批判は歯切れがいい。この反物理主義の主張に対してどのように物理主義者は返答するのだろうか。以下に四つの返答を挙げてみよう。

1カラーの世界を見ても、メアリーは新しい知識を獲得しない。
2彼女が獲得するのは新しい知識ではなく、別のタイプの知識(こつや技能)に過ぎない。
3彼女は新しい事実的な知識を獲得する。しかし、それは既知の知識を新しい様式で獲得するに過ぎない。
4彼女は新しい事実的な知識を獲得する。しかし、それは物理主義と両立する精妙な仕方で個別化したものに過ぎない。

 これらはいずれもジャクソンの基本的な姿勢、つまり認識論的な問題として物理主義の欠点を暴くという姿勢をそのまま認め、反物理主義的な結論は避けようとするものである。1を考えよう。チャーチランド、デネットがその代表で、未来の神経科学は今以上に進歩し、色の質や主観的経験を明らかにしてくれるので、メアリーは初めて色を経験しても驚くことはない。私たちは現在の物理主義的知識と未来のその知識がどのくらい隔たっているかを知らない。
 2の反論をチャーチランドは次のようにまとめている。

(1)メアリーは部屋を出る前に他人について知るために必要なすべての物理的なことを知る。
(2)メアリーは部屋を出る前に他人について知るために必要なすべてのことを知っていない。
それゆえ、物理主義的でない他人についての知識が存在する。

(1)と(2)の「知る」を考えてみよう。物理的なものの知り方は文によって表現でき、真か偽かの判断がつくような知識である。それに対して、「知る」の異なる解釈がある。それは文で表現できないような知識であり、真でも偽でもないような知識である。このような知識が(2)に含まれていれば、この推論全体は正しくないことになる。別の(2)に対する反論によれば、メアリーは新しい経験によって獲得したものがあるが、それは事実的知識ではなく、コツや技能に過ぎないというものである。

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