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2017年11月14日16:48

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直虎日記045

万千代が捕らえた家康暗殺計画の実行犯は、
武田の内通者で、家康長男である信康の部下だった。
自分の部下が敵と内通していて、父親を殺害しようとしていた、
その事を知らなかった。
管理責任が問われるのは真っ当じゃね?
それと、もし、この暗殺が成功していたらどうなっていたのだろう。
上司に命令されたわけでもなく、
下っ端が独断専行で自軍の総大将を暗殺。
オレが武田なら、報奨を与えず口封じするわ。

長篠の戦で武田は壊滅的と思うんだけど、
それでも織田にとっては脅威なのかな?

部下の失態がどうやら、
次男が産まれてお家がどうやら、
信長さんの性格を考慮してなど、
ややこしい状況は置いておいて。
義父が取り計らってやると言ったら、
「それでは、大変申し訳ありませんが、お言葉に甘えさせていただいて」が正解。
義父の厚意は、ありがた迷惑と思っても、
表面上は笑顔で受け取るのが処世術だよな〜

酒井さん、役立たず。
事実確認を行うの良いけど、
とりあえず家康は息子を信じ、
自身が直接、信長に申し開きに行ったら良いのに。

信長の娘で信康の嫁、徳姫。
いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている(ただし、築山殿と徳姫は居城が別であり、また側室がいることが当たり前の時代において、そのようなことで嫁姑の仲がこじれたということは考えにくいとみられる)。
また、信康とも不仲になったともいわれており、これを示す史料として、松平家忠の『家忠日記』の中に、家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へやって来た、と記されている(ただし、原著のこの部分は信康の喧嘩相手の名詞が破損しており、橋場日月は松平康忠と信康が仲違いしたとの説を提唱している)。その頃、信長も岡崎に来たことも記されており、信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た可能性も推測できる。一時的にせよ夫婦仲がこじれたことがあったことは事実であるといえよう。
天正7年(1579年)に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A7%AB
(wikipediaより抜粋)

織田、徳川、上の方針に領地持ちとはいえ新参者の下っ端ができることはなく、
万千代はただの傍観者。
直虎に至っては、今週居たっけ?状態。

ここに来て、氏真がカッコイイ。
フォト

これは頼りにして良いか!?

今回のサブタイトルは「魔王のいけにえ」。
元ネタは「悪魔のいけにえ」、さしずめ、信長がレザーフェイスか。



余談
直虎からずっと後の出来事
方広寺鐘銘事件
その鐘銘に〈国家安康〉の文字があったことから,徳川家康は家康を二つに割いた〈関東不吉の文辞〉があると難癖をつけ,豊臣方を大坂の陣へと追い込んだ。
https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6-79894
(コトバンクより抜粋)
家康は、
無理が通れば道理引っ込む
ってことを、学んだんだね・・・
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