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2017年11月11日19:54

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少し昔のこと

【少し昔のこと】

今回はボクの過去について少しだけ話そうと思う。

ボクは裕福な家庭に生まれついた。父は元々は琉球政府時代の公務員だったのだが、日本復帰に際し、公務員を辞めて民間で起業した。その後は父の才能で会社は急成長し、一時期は社員を20名以上雇っていたこともあった。

だが、ボクが中学の頃会社は傾いた。父は事務所に泊り込みで仕事をしてたし、母は料亭の仲居をして家計を支えた。昔はお手伝いさんを5人も雇うほど裕福だった家庭の「マダム」がだ。まあ、ウチのお袋は元来強い人だったから、「今日は伊勢えびがたくさんもらえたよー」なんて、明るく振舞ってた。

だけど、つらくないはずないさ。苦しくないわけないじゃないか。昼間はスーパーでレジ打ち、夜は料亭の仲居・・・ボクはそんな時期に思春期を過ごしたから、両親には決して頼らないと心に誓った。

父のような建築士になりたくて、父の母校でもあり、沖縄の工業高校では最難関である名門校、「県立沖縄工業高校建築科」を目指した。当時の基準で偏差値89のこの学校に通うと決めたのは、中学も三年になってからのことだった。進路について中学の教師に相談すると「お前には絶対に無理だ」と言われた。そりゃそうだ。これまでのボクはタチの悪いただのボンクラだったんだから。

ボクは必死に勉強し、無事に合格した。

父は何も言わなかったけれど、正直、息子が自分と同じ道に進んだということが嬉しかったのだと思う。親父はボクの入学と同時に高校のPTAに入った。まあウチの親父はこの世界では有名な実力者だったらしく、あっという間にPTA会長の座に、本意ではなかっただろうけど就いた。

高校に入学してもボクは遊びまくった。毎日クラブでバイトし、その後ディスコに繰り出す。そんな毎日で、帰りはいつも午前様だった。
その当時からボクはあれこれ色んなバイトしてたし、自分で稼いだ金だから惜しみなく遊びに使った。親に頼るのは出来なかったから学費も自分で払ってた。

男子校ってすごくいい加減なトコだけど、やるべきことはやる、って感じだった。週に3回は実習の時間なのだが、5教科は赤点とっても追試の回答を教えてくれる教師も、実習のときはマジモード。

なんせ教師は現役だし無駄なことは一切教えない。ウチの母校はOBの活躍もあって沖縄では絶大な発言力を誇っている。卒業後の就職率は85%だ。だが、それは即戦力として期待されているということでもあるわけで、実習の日はどんなヤンキーでも絶対にサボらなかったよ。

高校も3年生になる頃、ボクは自分の進路に疑問を抱くようになっていた。というのは、もともと「親父を超えるような建築士になりたい!」と夢を持ってたのだが、現実は違った。

当時ボクが憧れてたのは黒川紀章だったりした。万博のパビリオンなども手がける建築家だ。ところが大学にいって学び、学位をとらなければそんな建築士にはなれないって現実を知った。高卒程度の知識ではどうにもならんのよ。センスだとか言う前の問題・・・。

だからボクは大学を目指した。教師も学力的に進学できる工科大はあると言ってくれた。ところが・・・問題は法外な入学金と学費さ。ウチには金はないよ。

高校も卒業を間近に控えた10月頃、教師が「おーい!お前らー!今度、国家公務員試験があるぞ。受けたいヤツは受けろ」とビラをまいた。

「国家公務員試験受けてみようと思うんですけど」と高校の教師に言うと、やっぱり「お前には絶対に無理だ」と言われた。「受験費用をドブに捨てることになるぞ」とも言われた。

ボクは国家公務員試験を受け、合格した。教師は「俺はもう人生が信じられなくなったよ・・・」と言った。

国家公務員試験の合格通知というものは家と学校に届くのだが、それを最初に目にしたのはうちの両親だった。父親はなんだか照れくさそうに笑っていた。その日の夜、生まれて初めて父親と腰を落ち着けて話をした。

「お前はいつだって大事なことを私たちに相談しない。いつも自分で決めて行動する。だが、お前がこれまでやってきたことはすべて正しいと私は思う。だからもう私たちに遠慮するな。お前は自分の人生を自分で決められる。私たちはお前に対しては何の不安もないから」

思うのだが、男の子というのは父親の背中を見て成長するものだ。やたらうるさいだけの父親の『一言は軽い』。

思うに、ボクがいつも自分の実力以上のものを発揮するのは、周りがみんな「お前には絶対に無理だ」と言うからだ。

「お前には無理」、「絶対にやれっこない」

こう言われっと燃えるんだボクは。ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪




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