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2017年11月10日18:17

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その日、僕は所属結社の句会へ行くために、城北町から若の宮町への緩やかな坂を下っていた。急いではいなかった。急ぐのが嫌だったからだ。陽は中天に昇っていた。正確な時刻は知らなかった。僕の腕時計が電波時計ではない安物だったからである。僕は正確な時計が嫌いだった。昼食は取っていない。朝食が遅かったのと、出かけてからどこかで昼食をとるほどの金を持っていなかったせいだ。月末までまだ10日ほどあったが、今月を余裕を持ってやり過ごすほどの金を持ち合わせていなかった。生活費をみな酒代に変えてしまうような生き方をしていたわけではないが、その反対に生真面目にやりくりして暮らしていたわけでもない。吝嗇家的な生活をした日々もあるにはあったが、そんな暮らしもだんだん嫌になって辞めてしまった。
表通りの坂をずっと歩いていたけれど、中心街へ近づいていたにも関わらず、今日は誰ともすれ違わなかった。一般に言われている人口のドーナツ化現象もあってか、中心街の高齢化、過疎化が日頃僕の住むこの街でも問題になっていた。また巷の人々は100 mとない距離にある店へ行く時でさえ、車に乗って行くような暮らしをしている人がほとんどであったから、道で出くわす人々の数は年々減ってきた。僕はそんな気がしている。
季節は1月の下旬に差し掛かっていた。坂は晴れていて、風もさしてなかったようだが、空気は冷たく、手袋をしていないと指がかじかんで動かなくなるほどだった。真冬だったから、裸になった街路樹にさす日は樹々の影を、真昼でも心持ち長いものにしていた。僕はその影をぼんやり信号待ちしながら見つめていたが、見ているうちに、実物の樹とその樹の姿が織りなす影とはにわかに全く違う枝振りのように思われ、街路樹のそばに立っているのが嫌になってきたし、何だか少し怖くなってもいた。
僕は日頃から俳句を詠む暮らしをしていた。働いていなかったので収入は全くなかった。悪く言えば「国家の穀潰し」と呼ばれるたぐいの人間であり、精神障害者手帳を所持しているのに、申請をするのが遅かったせいで障害年金を得ることができない有様だったから、生活保護費を市から頂いて暮らしていた。半世紀前なら僕のような人間は狂人と言われ、まともな扱いは受けなかった。蔑まれ、笑われ、後ろ指をさされ、こづきまわされ、蹴飛ばされ、言葉によるリンチを受けて当然のたぐいの人間だったし、早世が関の山であったろう。
所属結社の句会は駅前の交流センターで午後1時から行われる。坂をぼんやりと下っていたが、もう正午をとうに廻っているはずなのに、僕はずっと同じところを歩いているような気がしてならなかった。句会場は僕の足ならば20分も歩けば着く場所である。にも関わらず、今日はどういうわけか、いつまでたっても城北町から若の宮町にかかる緩やかな坂を下っているばかりだった。そこから先へは歩いても、歩いてもたどり着けなかった。
ぼんやりとした思考は、一向にクリアになることがなかった。僕はただその坂を下って行った。何故だか酷く虚しかった。歩いていると行く先々で大きな鴉を見かけぎょっとすることがあった。鴉とはこんなに大きかったのか。僕は虚ろな頭でそう思った。どれほどの大きさだったか。それは空の王者猛禽類の、鷲のような「なり」をしていたのである。けれどもその日の僕は自分で考えてもわからないことを、考えることすら億劫だったから、それ以上そのことにこだわらなかった。たぶん昨今の鴉は食べるものが違っているのだ。どうでもいいことであり、僕とは何の変わりもないことだ。ただ巨大な鴉は時々近寄ってきたから、僕はできるだけそちらを見ないようにして、そこを立ち去ろうと思った この恐ろしい生き物に襲われたら、おそらく生きてはいられまい。けれども駆け出すと追っかけてきそうだったから、必死で足を競歩のように動かして歩いたが、彼らに考えていることを悟られたらと思うと、生きた心地がしなかった。
気が付くともうそこには鴉はいなかった。ずいぶん長い距離を歩いたような気がしていたが、場所を確かめてみると、僕は依然として城北町から若の宮町への緩やかな坂を下っていた。何のことなのか現実を正しく把握できていない自分が滑稽だった。いつしか僕は路上に立ち尽くしていた。なぜ歩くのをやめたのか、自分でもわからないが、歩く気がしなかった。今抱いている感情が何であるのか。うまく説明できない。悲しいような気がしたし、ひどく可笑しくもあった。人が歩いていたら無性に殴ってみたくもあった。大声で叫びたかった。人殺しをしたような気分だったと言えば大袈裟だろうか。わけがわからない。空には太陽が輝いていたが、一片の雲すらない空は僕をひどく不安にさせた。目の前の交差点に信号待ちの車が十数台停まっていた。僕はそれらを見ているうちに恐ろしくなってきた。乗っている者たちが皆、残らず僕を凝視しているような気がしてきたからだ。戦慄は電気ショックのように僕の全身を冷たく貫いた。無性に駆け出したくなってきたけれど、気ばかり焦らせ、駆り立てたところで、そこから一歩も動くことはできなかった。
信号が青になった。すると金縛りのように動かなかったぼくの脚はにわかに軽くなって、すんなり歩き出すことができた。まるで自分の身体に〈歩行スイッチ〉が入ったかのようだった。もしかしたら僕は機械仕掛けのアンドロイドのようなものかもしれない。そのような馬鹿げた考えがその日は現実味をもって思われた。自分の身体も心も自分のものではないような気がしていた。
しかし、それにしても気になるのは、今現在のこの状況である。どういうわけか未だに句会場に着かないのだ。僕は依然として城北町から若の宮町への緩やかな坂を下っていた。何時だろうと思い腕時計の時刻を見たけれど、もう正午から30分は経過しているはずなのに、時計は未だ正午のままだった。
切迫した状況にも関わらず、僕はぼんやりと、月末まであと10日の日々をどのようにして暮らすかを考えていた。考えがまとまらない。そうして歩いても、歩いても、城北町から若の宮町にかかる緩やかな坂は、いつまでも尽きることがなかった。僕はもう歩くのが嫌になっていた。歩行者には出会わなかったが、依然として道行く車を運転する者の視線が怖かった。何度も言うようだが不思議なのは、アパートを出てかれこれ1時間は歩いているのに、未だに城北町から若の宮町にかかる緩やかな坂を歩いていることで、師匠に遅れるという電話をかけようと思い、歩きながらポケットから携帯電話を取り出して、師匠のアイフォンの番号へかけたが、延々と呼び出し音がなるばかりで、電話が繋がることはなかった。すっかり途方に暮れた僕は歩を早めて歩いた。急がねばならなかった。句会を無断欠席したら師匠が心配する。心ある好意的な師匠であったから、遅れるわけにはいかなかった。けれどもどう歩こうと、城北町から若の宮町にかかる緩やかな坂は尽きることがなかったし、僕はその日決してそこから先へ行くことができなかった。心配になって腕時計を見たが、時刻は正午のままであった。止まっているのかと秒針をじっと見つめもしたけれど、秒針はきちんと動いていた。僕は携帯電話の時刻を見た。携帯電話の時刻は電波時計と同じく正確なはずだからだ。けれども僕の見た携帯電話の画面表示は、同じく12時0分を指し示していて、そこから1分たりとも進むことはなかった。
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