2398日目
・・・「十三歳」の「和泉式部」と別れ、置き去りにされたネコ(そめ)が悲しんで病にかかり(罹)、そこの温泉に浸かって病を癒やした「猫啼温泉」が現存するらしい・・・温泉街はないものの、「今出川」の流域に二軒の旅館があるらしい・・・「磐城の國・福島県石川郡石川町」ですか・・・
「今出川=いまでがわ
=位倍出臥倭(話)」
「今出川=コンシュツセン
=今出撰=艮朮撰
=金戌(シュツ・卆・甩・述・朮)撰」
=錦舟津殱(戦)
殲=つくす・ほろぼす・殺しつくす
セン・殲滅
以上も、以下もウイッキペデアから添付・・・少々、改作・・・
「八色の姓において
上級の氏姓にもれた
下級の身分の者や、
これらの農民を主な対象としたもので
その順位は、無姓を下級とし、
造(みやっこ)
公(きみ)
史(ふひと)
勝(すぐり)
村主(すぐり)
拘登(ひと)・・・拘=扌+句=かかわりを持つ・関係する
拘泥・拘引・自由を奪う
拘置・拘禁・拘束
登=のぼる
連(むらじ)
と身分が上がっていく。これは、
天武朝において氏上に相当する氏が
八色の姓に改姓する前段階として、
まず連(むらじ)への改姓が行われ、
この
「連=小錦」位以上を基点として、
「忌寸」以上の4つの姓へ改められたことと
同様の対応である」・・・
「氏上である
忌寸以上についても、
補足的な氏姓の変更が行われている。
氏の名において
春日より大春日
中臣より大中臣
への変更、また
宿禰から大宿禰
への変更が行われるなどしたため、
氏姓の制は、全般的に、
より緻密に浸透することになった」・・・
「首位の昇叙があり、ついでそれに連なる
直系親族のみに対し氏姓の変更が行われる
といった順序により
同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。
この改賜姓を認可する権限は天皇にあった」・・・
「氏姓制度の基盤は、
血縁集団としての同族にあったが、
それが国家の政治制度として編成し直された。
その成立時期は、5〜6世紀をさかのぼらない。
同族のなかの特定の者が、
臣(おみ)・・・・目・見張る・監督
連(むらじ)・・・聨合=聯合=連合・・・
聨=耳+幺+幺+廾(丱)=連=車+辶
伴造(とものみやっこ)・・・創造・造形・造詣・物造・技術者
国造(くにのみやっこ)・・・
百八十部(ももあまりやそのとも)
県主(あがたぬし)・・・縣・懸・阿形・鼎・阿片
などの地位をあたえられ、
それに応ずる氏姓を賜った。
各姓は以下、
臣(おみ)
↓↑・・・使主(おみ・漢人系渡来人
阿知使主(あちのおみ)
東漢氏の祖・阿智使主・阿知王・阿知吉師
王仁の裔と称する
河内漢氏(かわちのあやうじ)
東漢、西漢と連称されるが氏は別
坂上苅田麻呂の上表文
応神天皇のとき
後漢の
霊帝の三世孫
阿知使主(あちのおみ)が
党類十七県をひきい来日
子の
都加使主(つかのおみ・掬使主)を
呉に遣わし
工女兄媛・弟媛・呉織・穴織
四婦女を連れてかえった
これは
雄略天皇のときに
倭漢氏の一族が呉に使し
手末才伎(たなすえのてひと)の
衣縫兄媛・弟媛・漢織・呉織
を連れかえった説話と共通・・・
↓↑ ↓↑
阿知使主
旧居の帯方郡の故地
高句麗と百済の間に
才芸に巧みなものが
多いので迎えたいと申請
村落をあげ連れかえったのが
「漢人(あやひと)」・・・
「東漢掬=都加使主」
都加使主(つかのおみ)
応神朝に父の
阿知使主(あちのおみ)
とともに朝鮮半島から渡来
同朝の末年に父とともに
呉(くれ・中国江南の地)の国に
遣わされて
縫織の工女を伴い帰った
雄略朝に
百済から貢上した
今来才伎(いまきのてひと)である
新来の手工業技術者の
陶部(すえつくり)
鞍部(くらつくり)
画部(えかき)
錦部(にしごり)
訳語(おさ)
↓↑ などの管理を命ぜられた・・・
葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
圓(つぶら)氏=都夫羅使主
ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を
氏の名とし
王家と並ぶ立場にあり
ヤマト王権においても
最高の地位を占めた豪族
↓↑
連(むらじ)
大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
ヤマト王権での
職務を氏の名とし
王家に従属する
官人としての立場にあり
ヤマト王権の成立に
重要な役割をはたした豪族
↓↑
伴造(とものみやつこ)
連(むらじ)とも重なり合うが、
おもにそのもとで
ヤマト王権の
各部司を分掌した豪族
弓削氏(ゆげ)
矢集氏(やずめ)
服部氏(はっとり)
犬養氏(いぬかい)
舂米氏(つきしね)
倭文氏(しとり)・・・ナゼ「倭文氏(しとり)」?
↓↑ 訓なら「やまとのあやし」だろう
倭文=シトオリという織布
倭文とは倭文(しず・旧事記)
という織物の名で
正しくは
「シズリ・シドリ(和訓栞)」
「シズオリ(天武記)」
等と読むべきで、
倭織りの文布ではなく
倭文の文字をシズオリと読ませた?
倭文=楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で
その横糸を赤青の原色で染めて
乱れ模様に織ったもので
横シマの
楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布・・・
ならば
「やまとのあやし」なら
「倭文氏」は「倭」とは
「日本以外」からの「帰化人」だろう?
しかも「倭と漢の文氏」とは
↓↑ 双方の「文字」の「翻訳係り」だろう・・・
などの氏や
秦氏(はた)
東漢氏(やまとのあや)・・・東=やまと
ひがし=比嘉詞-漢-氏
あつま・吾妻・我妻・阿妻
西文氏(かわちのふみ)・・・西=かわち=河内
にし=爾耳・似詞-文-氏
などの代表的な
帰化人達に与えられた氏
連(むらじ)
造(みやつこ)
直(あたい)・・・「直=なおす・ジキ・チョク
正直・直角・直線」
直衣(のうし)=タダの衣
公(きみ)
などの
姓を称した
↓↑
百八十部(ももあまりやそのとも)・・・陌捌拾(足)の部
さらにその下位にあり、
部(べ)を直接に指揮する・・・部=隷属する人々の集団、班
多くの
伴(とも)・・・現場監督・班長
をさす。
首(おびと)
史(ふひと)・・・・記録係
村主(すくり)・・・村長
勝(すくり)・・・・警察、軍事、秩序係り
などの
姓(カバネ)を称した。
↓↑
国造(くにのみやつこ)
代表的な
地方豪族をさし
一面では
ヤマト王権の地方官
また在地の
部民を率いる
地方的
伴造の地位にある者・・・
↓↑
国造には、
君(きみ)
直(あたい・あたえ)
の姓が多く、
中には
臣(おみ)・・・使主
を称するものもあった。
↓↑
県主(あがたぬし)
これより古く、
かつ小範囲の
族長
いずれも
地名を氏の名とする。
このように、
氏姓制度とは
連―伴造―伴(百八十部)という
王のもとで
ヤマト王権を構成し、
職務を分掌し世襲する、
「負名氏(なおいのうじ)」
を主体として生まれた
そののち、
臣(おみ)のように、
元々は王とならぶ
地位にあった豪族にも及んだ・・・
↓↑
「部民制」
「氏姓は元来はヤマト王権を構成する
臣・連・伴造・国造
などの
支配序列の階級別構成員を称したものである
(王とその一族を除く)
しかし、6世紀には一般の民にも及んだ
これらの一般の民は、
朝廷すなわち、
天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、
さらに
臣、連らの豪族に
領有・支配されていた
一般の民の中から、
朝廷に出仕して、
職務の名を負う
品部(しなべ)
王名、宮号を負う
名代・子代、屯倉
の耕作民である
田部
などが必然的に生まれた
彼らは
部民共同体の中で
戸を単位に編成され
6世紀に
籍帳に登載され
正式に氏姓をもった」・・・
↓↑
「地方豪族の
支配下にあった
民部(かきべ)は、
在地の族長を介して、
共同体・・・支配下に無い「協同体」は在ったか?
のまま
部(べ)に編入し
族長を経て
生産物を貢納させる形のものが多かった
↓↑
地方豪族の
支配下にあった・・・支配下に無い
「協同体」は在ったか?
支配序列の無い
「協同体」は在ったか?
一般の民にまで
6世紀の段階で
氏姓が及んでいたかどうかは定かではない」・・・
・・・定かではない・・・らしい・・・
ーーーーー
・・・次ページへつづく・・・
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