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2017年11月01日23:04

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もじたま日記・2398日目・階級支配システム・・・

 2398日目
 ・・・「十三歳」の「和泉式部」と別れ、置き去りにされたネコ(そめ)が悲しんで病にかかり(罹)、そこの温泉に浸かって病を癒やした「猫啼温泉」が現存するらしい・・・温泉街はないものの、「今出川」の流域に二軒の旅館があるらしい・・・「磐城の國・福島県石川郡石川町」ですか・・・
 「今出川=いまでがわ
     =位倍出臥倭(話)」
 「今出川=コンシュツセン
     =今出撰=艮朮撰
     =金戌(シュツ・卆・甩・述・朮)撰」
     =錦舟津殱(戦)
       殲=つくす・ほろぼす・殺しつくす
         セン・殲滅
 以上も、以下もウイッキペデアから添付・・・少々、改作・・・
 「八色の姓において
  上級の氏姓にもれた
  下級の身分の者や、
  これらの農民を主な対象としたもので
  その順位は、無姓を下級とし、
  造(みやっこ)
  公(きみ)
  史(ふひと)
  勝(すぐり)
  村主(すぐり)
  拘登(ひと)・・・拘=扌+句=かかわりを持つ・関係する
             拘泥・拘引・自由を奪う
             拘置・拘禁・拘束
           登=のぼる
  連(むらじ)
  と身分が上がっていく。これは、
  天武朝において氏上に相当する氏が
  八色の姓に改姓する前段階として、
  まず連(むらじ)への改姓が行われ、
  この
  「連=小錦」位以上を基点として、
  「忌寸」以上の4つの姓へ改められたことと
  同様の対応である」・・・
 「氏上である
  忌寸以上についても、
  補足的な氏姓の変更が行われている。
  氏の名において
  春日より大春日
  中臣より大中臣
  への変更、また
  宿禰から大宿禰
  への変更が行われるなどしたため、
  氏姓の制は、全般的に、
  より緻密に浸透することになった」・・・
 「首位の昇叙があり、ついでそれに連なる
  直系親族のみに対し氏姓の変更が行われる
  といった順序により
  同族の中から有力な者が抽出されるという点にある。
  この改賜姓を認可する権限は天皇にあった」・・・
 「氏姓制度の基盤は、
  血縁集団としての同族にあったが、
  それが国家の政治制度として編成し直された。
  その成立時期は、5〜6世紀をさかのぼらない。
  同族のなかの特定の者が、
 臣(おみ)・・・・目・見張る・監督
 連(むらじ)・・・聨合=聯合=連合・・・
          聨=耳+幺+幺+廾(丱)=連=車+辶
 伴造(とものみやっこ)・・・創造・造形・造詣・物造・技術者
 国造(くにのみやっこ)・・・
 百八十部(ももあまりやそのとも)
 県主(あがたぬし)・・・縣・懸・阿形・鼎・阿片
 などの地位をあたえられ、
 それに応ずる氏姓を賜った。
 各姓は以下、
 臣(おみ)
 ↓↑・・・使主(おみ・漢人系渡来人
     阿知使主(あちのおみ)
     東漢氏の祖・阿智使主・阿知王・阿知吉師
     王仁の裔と称する
     河内漢氏(かわちのあやうじ)
     東漢、西漢と連称されるが氏は別
     坂上苅田麻呂の上表文
     応神天皇のとき
     後漢の
     霊帝の三世孫
     阿知使主(あちのおみ)が
     党類十七県をひきい来日
     子の
     都加使主(つかのおみ・掬使主)を
     呉に遣わし
     工女兄媛・弟媛・呉織・穴織
     四婦女を連れてかえった
     これは
     雄略天皇のときに
     倭漢氏の一族が呉に使し
     手末才伎(たなすえのてひと)の
     衣縫兄媛・弟媛・漢織・呉織
     を連れかえった説話と共通・・・
 ↓↑  ↓↑
     阿知使主
     旧居の帯方郡の故地
     高句麗と百済の間に
     才芸に巧みなものが
     多いので迎えたいと申請
     村落をあげ連れかえったのが
    「漢人(あやひと)」・・・
    「東漢掬=都加使主」
     都加使主(つかのおみ)
     応神朝に父の
     阿知使主(あちのおみ)
     とともに朝鮮半島から渡来
     同朝の末年に父とともに
     呉(くれ・中国江南の地)の国に
     遣わされて
     縫織の工女を伴い帰った
     雄略朝に
     百済から貢上した
     今来才伎(いまきのてひと)である
     新来の手工業技術者の
     陶部(すえつくり)
     鞍部(くらつくり)
     画部(えかき)
     錦部(にしごり)
     訳語(おさ)
 ↓↑  などの管理を命ぜられた・・・
 葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏
 圓(つぶら)氏=都夫羅使主
 ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を
 氏の名とし
 王家と並ぶ立場にあり
 ヤマト王権においても
 最高の地位を占めた豪族
 ↓↑
 連(むらじ)
 大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏
 ヤマト王権での
 職務を氏の名とし
 王家に従属する
 官人としての立場にあり
 ヤマト王権の成立に
 重要な役割をはたした豪族
 ↓↑
 伴造(とものみやつこ)
 連(むらじ)とも重なり合うが、
 おもにそのもとで
 ヤマト王権の
 各部司を分掌した豪族
 弓削氏(ゆげ)
 矢集氏(やずめ)
 服部氏(はっとり)
 犬養氏(いぬかい)
 舂米氏(つきしね)
 倭文氏(しとり)・・・ナゼ「倭文氏(しとり)」?
 ↓↑         訓なら「やまとのあやし」だろう
         倭文=シトオリという織布
            倭文とは倭文(しず・旧事記)
            という織物の名で
            正しくは
            「シズリ・シドリ(和訓栞)」
            「シズオリ(天武記)」
            等と読むべきで、
            倭織りの文布ではなく
            倭文の文字をシズオリと読ませた?
      倭文=楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で
         その横糸を赤青の原色で染めて
         乱れ模様に織ったもので
         横シマの
         楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布・・・
         ならば
         「やまとのあやし」なら
         「倭文氏」は「倭」とは
         「日本以外」からの「帰化人」だろう?
         しかも「倭と漢の文氏」とは
 ↓↑      双方の「文字」の「翻訳係り」だろう・・・
 などの氏や
 秦氏(はた)
 東漢氏(やまとのあや)・・・東=やまと
                 ひがし=比嘉詞-漢-氏
                 あつま・吾妻・我妻・阿妻
 西文氏(かわちのふみ)・・・西=かわち=河内
                 にし=爾耳・似詞-文-氏
 などの代表的な
 帰化人達に与えられた氏
 連(むらじ)
 造(みやつこ)
 直(あたい)・・・「直=なおす・ジキ・チョク
                 正直・直角・直線」
             直衣(のうし)=タダの衣
 公(きみ)
 などの
 姓を称した
 ↓↑
 百八十部(ももあまりやそのとも)・・・陌捌拾(足)の部
 さらにその下位にあり、
 部(べ)を直接に指揮する・・・部=隷属する人々の集団、班
 多くの
 伴(とも)・・・現場監督・班長
 をさす。
 首(おびと)
 史(ふひと)・・・・記録係
 村主(すくり)・・・村長
 勝(すくり)・・・・警察、軍事、秩序係り
 などの
 姓(カバネ)を称した。
 ↓↑
 国造(くにのみやつこ)
 代表的な
 地方豪族をさし
 一面では
 ヤマト王権の地方官
 また在地の
 部民を率いる
 地方的
 伴造の地位にある者・・・
 ↓↑
 国造には、
 君(きみ)
 直(あたい・あたえ)
 の姓が多く、
 中には
 臣(おみ)・・・使主
 を称するものもあった。
 ↓↑
 県主(あがたぬし)
 これより古く、
 かつ小範囲の
 族長
 いずれも
 地名を氏の名とする。
 このように、
 氏姓制度とは
 連―伴造―伴(百八十部)という
 王のもとで
 ヤマト王権を構成し、
 職務を分掌し世襲する、
 「負名氏(なおいのうじ)」
 を主体として生まれた
 そののち、
 臣(おみ)のように、
 元々は王とならぶ
 地位にあった豪族にも及んだ・・・
 ↓↑
 「部民制」
 「氏姓は元来はヤマト王権を構成する
  臣・連・伴造・国造
  などの
  支配序列の階級別構成員を称したものである
 (王とその一族を除く)
  しかし、6世紀には一般の民にも及んだ
  これらの一般の民は、
  朝廷すなわち、
  天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、
  さらに
  臣、連らの豪族に
  領有・支配されていた
  一般の民の中から、
  朝廷に出仕して、
  職務の名を負う
  品部(しなべ)
  王名、宮号を負う
  名代・子代、屯倉
  の耕作民である
  田部
  などが必然的に生まれた
  彼らは
  部民共同体の中で
  戸を単位に編成され
  6世紀に
  籍帳に登載され
  正式に氏姓をもった」・・・
  ↓↑
 「地方豪族の
  支配下にあった
  民部(かきべ)は、
  在地の族長を介して、
  共同体・・・支配下に無い「協同体」は在ったか?
  のまま
  部(べ)に編入し
  族長を経て
  生産物を貢納させる形のものが多かった
  ↓↑
  地方豪族の
  支配下にあった・・・支配下に無い
           「協同体」は在ったか?
            支配序列の無い
           「協同体」は在ったか?
  一般の民にまで
  6世紀の段階で
  氏姓が及んでいたかどうかは定かではない」・・・
 ・・・定かではない・・・らしい・・・
ーーーーー
 ・・・次ページへつづく・・・

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