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2017年10月27日20:26

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データ改竄で揺れる神戸製鋼所に“コネ入社”していた「安倍晋三首相」>といいながら

データ改竄で揺れる神戸製鋼所に“コネ入社”していた「安倍晋三首相」


10/27(金) 12:25配信

デイリー新潮

安倍晋三


 神戸製鋼所が製造するアルミ・銅製部材のデータ改竄問題が大きく報道されているが、同社に安倍首相が“コネ入社”していたことは意外に知られていないようだ。

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 しかも、安倍首相が社員だった頃から、神戸製鋼所は不正に手を染めていた疑いが出てきている。共同通信の取材に対し、アルミ・銅部門の同社OBは今月18日、「仕様を満たさない製品を顧客に無断で納入しても問題とならない許容範囲」をメモ化し、歴代担当者が代々受け継いできたと証言した。

更に別のOBは「40年以上前から、業界の慣習だった」と指摘。40年前なら1975年頃となる。安倍首相が神戸製鋼に勤務していたのは79年から82年だから、神戸製鋼が「無断納入」に手を染めていた時期と重なるのだ。

では政治ジャーナリスト・野上忠興氏の著作『気骨 安倍晋三のDNA』(講談社)から、「首相の会社員時代」をご紹介しよう

 安倍首相は成蹊大学法学部を卒業すると渡米、1978年から南カルフォルニア大学で学ぶ。すると外務大臣を歴任し、総理総裁候補に挙げられた父の安倍晋太郎氏(故人・1924〜91年)が79年に帰国を命じる。晋太郎氏が就職させる意向を示し、安倍首相も同意すると、たちまち周囲は騒がしくなったという。
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「政略結婚」ならぬ「政略就職」

 同書を引用する。

《大物政治家の息子だけに、大手商社や銀行などから「ぜひわが社に来てください」という申し入れが山のように安倍家に来たからである(略)なぜ「神戸製鋼所」が選ばれたのか。安倍が主体的に選んだわけではなかった。実は「政略結婚」ならぬ「政略就職」だった》

 晋太郎氏の秘書が「神戸製鋼しかない」と密かに動いたのだ。当時は中選挙区制。旧山口1区からは晋太郎氏を含め、自民党は3人を当選させていた。だが、うち1人は神戸製鋼長府製造所が建つ土地の半分を有するという大地主。晋太郎氏の落選はないが、総理候補に名乗りを上げるためには、トップ当選は譲れない線だ。秘書氏が回想する。

《おやじ(晋太郎)は潔癖症だから、そうした政略的な選挙対策を極端に嫌う。晋三さんを神戸製鋼に入社させようとしていることがわかれば、自分の選挙区事情を知るおやじにその魂胆を見抜かれ「選挙対策をお前に教えてもらう必要はない」とはねつけられることは目に見えていました。だから、事前の準備はすべて水面下でやる必要がありました》

 秘書氏は、晋太郎氏には義父にあたる岸信介・元首相に働きかけ「鉄鋼はいいぞ」と勧めてもらう。そして独断で神戸製鋼幹部に根回しを行い、外堀を埋めた。秘書氏は晋太郎氏の「黙認」を取り付け、安倍首相には「おじいちゃんも喜んでいる」の殺し文句で同意を取った。
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活躍のニューヨーク、苦労の加古川

 入社決定まで時間がかかったため、正社員として採用させることが不可能となる。そのため最初は「嘱託」として79年、ニューヨーク事務所に配属される。事務所側は「代議士の息子なんて……冗談じゃないよ」と反対する声が多数だったというが、安倍首相本人が現れると下馬評は一変した。当時の管理職が言う。

《スーッと現れ、我々の目の前に立った安倍君は、えらく優男で、シャイで、そして全然代議士の息子らしくない風貌と態度でした。悪く言えば、いかにも線が細いお坊ちゃんという感じだった。それで皆アレッていう感じで、「この人ほんとに将来代議士になるんかな」と心配したぐらいです》

 たちまち「非常に謙虚な好青年」との評価が下った。職場での日常は、以下のようなものだったという。

《技術・営業部門駐在員の出張など各種費用の計算から、会計士との折衝、出張の同行、日本からの客の送迎運転までなんでも屋・便利屋的なものだった。アフターファイブになると、独り身の晋三は、何かにつけ、「おい、アベちゃん、行くか」と麻雀、カラオケなどに誘われた》

 翌80年、安倍首相は正社員として神戸製鋼所に入社する。配属先は兵庫県加古川市の神戸製鋼加古川製鉄所だった。だが、ここでは人間関係に苦労したようだ。

《成蹊大学時代の同級生たちは、たまの休みで上京した晋三がふと漏らした本音に、相当追いつめられていることを感じたという(略)同級生たちの前で、「工場勤めも結構いろいろあって難しいんだよなあ」「現場のおやじさんなんかと心を通じるって大変なんだ」とこぼした。慣れない住環境と現場での人間関係でストレスがたまり、腸の先天的な弱さも重なって次第に晋三は体調を崩していく》

 同僚の記憶によると、1980年の夏ごろ、安倍首相は療養を理由に東京に帰ったという。加古川に戻ってきたのは秋口で、数カ月後の81年2月には東京本社へ配属となった。
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野武士集団に揉まれた「お坊ちゃん」

 本社の配属先は「鉄鋼販売本部・鉄鋼輸出部・冷延鋼板輸出課」。競合は現在で言う新日鉄住金とJFEスチール。神戸製鋼のシェアは僅か5%という後発中の後発。ために課員は8人という小所帯ながら、「全員が野武士」という猛者集団だった。

上司に「よろしく頼むよ」と頼まれた輸出課長は「厄介なものを預かることになったなあ」と思いながらも、大物政治家の息子を見たいという好奇心には勝てず、「話は分かりました。ただ一切斟酌しまへんで。それで結構でしょうね」と答えた。輸出課は後発で悔しい思いをすることも多く、課員は負けず嫌いばかり。課長が回想する。

《晋ちゃんも性格的に負けず嫌いなところがあるから、向いていたんでしょう。「いまに見ておけよ、俺たちは必ず良い鉄を作って、売り込んでやるからな」という空気があって、晋ちゃんも入ってきてすぐに大きな仕事をこなすようになりました(略)今でも彼は取り引きで付き合ったアジアのディーラー名を二十社ぐらいはすらすら言えるはずですよ。それぐらい猛烈に働いた。しばらくしてアジアの商品シェアが非常に上がっていった。別によいしょするわけではなく、彼は彼なりに、きっちり結果を残しています》

 こうして安倍首相は神戸製鋼所で3年、会社員生活を送った。安倍首相自身の回想を引用しよう。

《溶鉱炉の現場を踏んだし、営業もやった。いろいろなことで悩み、悩まされ、そのなかで、「情」の大切さを再認識することもできた。それに人間関係や会社世界の厳しさも体験できました》

 82年、安倍首相は神戸製鋼所を退職し、父・晋太郎の秘書官となる。それから約35年。安倍首相は、どんな想いで古巣の騒動を見ているのだろうか。

週刊新潮WEB取材班

2017年10月27日 掲載
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新潮社



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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171027-00532006-shincho-pol&p=2
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