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2017年10月05日23:15

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ショスタコーヴィッチ/その他

N響の録画をつけたら、ヤルヴィがショスタコーヴィチの7番をやっていた。
演奏はこれから聴くが、演奏前の彼のコメントに感銘を受けた。

「ショスタコーヴィチは戦争の悲劇やナチズムだけを語っているのではありません。
ロシア人はナチス・ドイツと戦う音楽だと白黒はっきり決めたがりますが、
そうではないのです。
ひとつに限らず、あらゆる(generally)形の耐えがたい不当やファシズムについての音楽なのです。」

これは確かにそうで、いわゆるクラシック音楽全般に言えると思う。
ベートーヴェンが失恋で作った曲だとか、背景を知らずとも我々は感動したりする。

僕はスポーツ観戦の趣味はないが(見ても分からない)、似たようなものだと思う。
詳しく知らないが「(スポーツ選手に?)自分を重ねてるんじゃね〜」と言って物議をかもした?議員のコメントがあったと思う。
(ちらっとテレビで見ただけなので、間違っていたらごめんなさい。)

これは美学上の古典的な問題とも重なると思うが、僕は美学に疎いので、詳しくは分からない。
(アリストテレスのミメーシスと重なるのかな)

ただ、自分の周囲でスポーツ観戦している人は、投影して、観戦していることような気がする。
(スポーツ観戦される方の意見を是非聴いてみたい。)

小説の主人公に、自己投影している、などよく言いますね。

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ショスタコーヴィッチに話を戻すと、ヤルヴィが言った、「generally」というのが、大事で、
哲学用語に変換すると「普遍的」といってよいと思う。
プラトンの「ただ生きるのではなく、よく生きる」という言葉や、カントの普遍性を問う試みは時代を超えて訴えかける。
ベートーヴェンでも、同様だ。

音楽でも、哲学、文学でも、やっぱり「クラシック」「古典」、は、スパンが長いというか、
問い自体が深いので、週刊誌と違って、読み継がれ、聴き続かれる、というのが
取り急ぎ、今日の結論。
(違っているかもしれない。)

「時代を越えて」といっても、我々個人は、200年後にはいないし、
宇宙の歴史を考えると、人類自体、小さい規模かもしれない。
しかし相対論でいうと、「古典」と呼ばれるものは奥がある。

そして音楽というのは、言葉の壁などない点が大きい。
小学校の授業でも「田園」を聴かせる。
ただクラシックの場合、何度もきいて、感動したり、10年後に目覚めたりする。
これは不思議な現象だ。
抽象的だから、伝わりやすい面と、伝わりにくい面、諸刃があるのだろう。

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ショスタコーヴィッチが古典かどうかは、後代が決めることだ。
個人的には古典だと思う。
作品数が多いので、ヘンテコなのも一杯あるけど。
交響曲では、8番、10番、15番が素晴らしいと思う。
4番は、ロックンロール。

「24の前奏曲とフーガ」は、全部咀嚼していないけど、いいねぇ。
カルテットの8番も感動的だ。

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