mixiユーザー(id:19347649)

2017年09月16日10:20

494 view

健全な仮説と懐疑論的仮説を検討することによる懐疑論論駁

科学哲学コミュのテーマ「健全な仮説と懐疑論的仮説を検討することによる懐疑論論駁」についてのコメントくぉメモ(記録)と致します。


柱書:

健全な仮説と懐疑論的仮説を検討することによる懐疑論論駁

ごう@けものフレンズ  様の記述内容

2017年01月24日 03:50

世の中には、懐疑論というのがある。哲学的懐疑論。

自分がじつはマッドサイエンティストがつくった桶の中の脳(マトリックスのような)とか、他人には意識がないのではないか(哲学的ゾンビ、独我論)、とか、天がふってくるのではないか?(杞憂)、宇宙が突然終わるのではないか(科学的仮説としていわれている。)

数学の答えは、日にちが変わると変わるのではないか(クワスのパラドクス)、
論理法則は実はたんなる極め付けで、証明がなく、正しいという保証がないのではないか?(論理法則の無限背進)
記憶はすべてでたらめなのでは?
世界は五分前につくられたのではないか?(ラッセルの五分前世界創造仮設)

たくさんあるのである。桶の中の脳は映画にもなり、哲学でも有名なので、知恵袋などで実際にそうではないかと恐れる人までいるのである。

自分も懐疑論にはまってしまって、独我論とか論破するためにずっと考えてきた。

今日やっと論破できたとおもう。

まず、懐疑論と、健全な世界観を両方科学的・学問的・哲学的仮設とみる。

仮説と考えると、仮説を支持する根拠を比べて、もっともたしからしい仮設を採用するべきである。

いま、「明日重力の法則が変更されてしまう」かもしれない、という懐疑論を考える。

たしかに、可能性としては、明日重力の法則がかわってしまうという世界を描き得る。なので、論理的思考的には、そういう仮説は可能である。

そして、明日も重力の法則は今日と同じであるという健全な仮設(常識や科学)がある。

健全な仮設を支持する根拠を考えよう。

まず、重力の法則がなりたつというのはいつでもどこでもなりたってきた。思考すら、脳のなかの重力があるから可能である。

つぎに、科学的総合判断として、今までの科学理論を検討して、重力が突然変更されるということを示唆するようなデーターや理論はまったくない。科学的総合判断から、重力は変わらないだろう、といえる。

次に、哲学的直観。時間は物理的属性としては、物理法則を変えない、という哲学的直観、および、いままで時間が無力だった、だから、それを自然を未来にも延長すべき、という哲学的直観がある。

それから、実践のなかでは、重力が変わらないということは自明である。実践しているとき、重力が変わらないということを自然に人間は知っている。

それから、常識。常識的に当たり前。

最後に信仰。神様が存在するから、突然重力の法則を無意味に変えることによって人間を混乱させることはしないだろう。

これらの根拠が「重力法則は明日も同じである」という仮説を真理と信じる根拠である。

一方懐疑論のほうの仮設「重力法則が明日突然なくなってしまうかもしれない。」

これを支持する根拠は、科学のなかにも哲学のなかにも、常識でも、実践の中にも信仰の中にもない。

よって、健全な仮設のほうを真理とみなすべきである。


知性を可能にする原理、そして懐疑論が標的としてきた可能性。

斉一性の原理(法則がいつでもどこも同じようになりたつ、未来にも。時間にかかわりなく)
論理法則の正しさ(論理学の法則がただしいこと)
数学的計算の正しさ(加算の結果がいままでしたことのないものだったら、突然結果が変わるというような仮説)

独我論は斉一性の原理を用いて、脳状態が同じようであれば、意識状態も同じだろうということと、脳を接続したら他者の意識が見えるだろうという科学的推測によって、他者も存在する(哲学的ゾンビでない)ということのほうがもっともらしい仮説であるといえる。

世界を五分前に創造したということを支える考古学的、物理学的、宗教的、日常的、実践的根拠はなにもない。


懐疑論の根は、新奇な説、いままでの常識を覆す説、われわれが当たり前とおもっていることをはねのけるような説、それへの驚きから、それが真理であるのではないかという迫力に押されて、怯えてしまう。そして、慎重にその懐疑的仮説を支える根拠を検討することを怠ってしまう、ここにあるとおもう。それは哲学者でも一般人にもあてはまるとおもう。

だから精神的健全さも懐疑論をはねのけるためには必要であって、科学や常識、実践すること、も真理を選択するために必要であるといえる。(懐疑論者は実践的課題にあまりいどんでいないし、科学的思考にもあまりなじみがないのだろうとおもう。)


これで、斉一性の原理(帰納による法則の証明に使う)
論理法則
数学法則
記憶のたしからしさ
他者の意識の存在
概念を記号が指し示すことの一義性(グルーのパラドクスにたいして)

これに現象学的センスデーターの真理性を加えて、すべての知識の基礎とできるはず。

が基礎づけられた。これによって再びすべての学問と人間知を哲学が基礎付けるという基礎付け主義の構想が可能になるとおもう。むかしの論理実証主義のように、すべての学問を公理化するという目標も復活させてもいいとおもう。

イイネ!
コメント
1人がイイネ!

コメント(5)


[1] モリオバッハ

2017年01月24日 10:54

ごう  さん

おはようございます。

科学と哲学・宗教・倫理等々について、今までの文化人達は思考法に錯綜観、誤認混同観が激し過ぎて様々な葛藤がみられ、人類の健全化は達成できていませんね。

文系人&理系人の思考法も色々ありますが、大半の人々が真理を見極められず、お互いに戦争状態が続いていますね。

貴殿と同じように私も発明が大好きで、特許屋(特許管理から特許侵害事件処理に至るまで)として特許に関する仕事を楽しんで参りました。

今では知的所有権と呼ばれておりますが、還暦定年退職(2007年)するまで、著作権、不正競争防止法をも携わってきましたよ。

街の発明家のアイディアも1000件余り、審査して参りましたが、出願に値する案件は2〜3件くらいしかありませんでしたね。

大半のアイディアは、出願前の公知・公用・文献公知・同業者容易発明、即ち特許法第29条に該当したため、拒絶と判断(判定)したのですよ。

特許侵害事件では、色々なパテントマップやポートフォリオを作成したり、第29条に該当する証拠を発見し、立証弁論に役にたったのですよ。

サアラリーマン時代で培った種々の思考法を駆使し、科学と哲学・宗教・倫理等々について、現場観察を繰り返し、現場検証を基に、事実確認を積み上げ、真実を見出し、更に精査・考察を深めていくと真理・本質が見えてくる、気が付く、発見できる世界観なのです。

貴殿のプロフィールを閲覧させて戴きましたが、まだまだお若いので、何でも現場主義で、観察力、分析力、解析力、精査・考察能力を磨いてくださいね。

学生時代、サラリーマン時代に学習された色々な知識を体系化され、知識を知恵に変えて、自身のライフスタイル(生活習慣)に活用されなければ学習(マスター)したとは言えないのですよ。

世界の人類の健全化に向けて、真理に辿りついてくださいね!!

貴殿の記述された柱書に対する適切なコメントになっていないことお詫び申し上げますが、貴殿が今後の研究・探求に対して少しでもヒントになれば幸いとの気持ちで書き込みした次第です。

感謝


[2] ごう@けものフレンズ

2017年01月27日 14:33

コメントありがとうございます。

自分自身、学問や大学での哲学や科学ではなく、実践ということがつねに念頭にありました。発明というのは、非常に実践的な知のあり方であり、わたしも興味もっています。

現場中心ということ心にとめておきたいとおもいます。

よかったら、マイミクいいですか?

イイネ!
返信
1人がイイネ!


[3] モリオバッハ

2017年01月28日 09:35


>>[2] ごうさん

おはようございます。

実践的な知の在り方にご興味を抱かれており嬉しい限りです。

マイミクのご申請有難うございました。

早速マイミク追加いたしましたので、今後共に宜しくお願い申し上げます。

感謝



[4] あかふく

2017年09月13日 14:09

論理的にあり得るかどうか。
自然的にあり得るかどうか。

あるいは、権利問題として...事実問題として...

独我論も世界5分前仮説も論理的にはあり得るが自然的にはあり得ないと考えられる。それを可能にする物理法則がないから。と一応は考えていいと思います。

ただ、ここでの「健全な仮説」とはつまるところ有用な仮説という意味で、プラグマティズムですね。

一方で、まず間違いなく正しいとその時代にされていたことを疑うことが科学を進歩させたのも確かで、常識に留まるわけにもいかない。また、懐疑論者は実践的でも科学的でもないというのは違います。(ネット上のかまってちゃんならいざ知らず)実践や科学はわきまえた上で、その上で敢えてこうも考えられないか?という話です。

イイネ!
返信
1人がイイネ!



[5] モリオバッハ

2017年09月16日 10:01


>>[4] あかふくさん

おはようございます。

面白そうな考え方に賛同したいのですが。

貴殿のご意見に対して所見を記述しました。

Q1:論理的にあり得るかどうか。自然的にあり得るかどうか。あるいは、権利問題として...事実問題として...

A1:夫々あり得るか否かを見極める検証は大変な作業となるでしょうね。

権利問題としての考え方には気づきませんでしたね。

日本特許協会(現在、日本知的財産協会)主催のセミナーで、民事訴訟法のセミナーに参加したことがありましたよ。

学習院大学の中村教授が、全9回のセミナーで、毎回のセミナーの初めに復唱された言葉を思い出しました。

米国での訴訟法は、相手の主張に対して、「正義があるか否か」が問題で重要視されるのに対して、日本での訴訟法は「権利があるか否か」を底辺(ベース)に考えていることを。

本件の事案とは一寸異なりますが、権利まで波及することまで気づきませんでしたよ。


Q2:独我論も世界5分前仮説も論理的にはあり得るが自然的にはあり得ないと考えられる。それを可能にする物理法則がないから。と一応は考えていいと思います。

A2:私もその通りだと想いますよ。


Q3:ただ、ここでの「健全な仮説」とはつまるところ有用な仮説という意味で、プラグマティズムですね。

A3:健全と有用ですか。面白そうな診方ですね。

検証できないことは、仮説とか推定をして、論証していき、矛盾、理不尽が見出さなければ、その仮設や推定は正しいものと見做すと言った考え方で取り組んで参りました。

特許法でも見做し規定がありますよ。

侵害事件も見做さなければ先に進めませんから。


Q4:一方で、まず間違いなく正しいとその時代にされていたことを疑うことが科学を進歩させたのも確かで、常識に留まるわけにもいかない。

A4:そう想いますよ。

理系人の思考法は、先人のなした結果が本当に正しいかったか否か、常に疑問を持ち確認実証実験をしていくスタイルをとります。

科学(発明)の進歩性や新規性は、特許法第29条に規定されており、審査官は案件ごとに、先行文献資料(公知、公用、文献公知)と照合し、進歩性(先人の発明とどのくらい進歩しているのか)を問い合わせてきます。

拒絶理由通知に対する意見書で、これだけ進歩しているよと反論し、審査官に認識させていくわけです。

発明の積み重ねで科学が進歩してきたのは確かなことですよね。


Q5:また、懐疑論者は実践的でも科学的でもないというのは違います。(ネット上のかまってちゃんならいざ知らず)実践や科学はわきまえた上で、その上で敢えてこうも考えられないか?という話です。

A5:仰る通りですね。

実践や科学をわきまえたうえでの思考法による一考、でしょうね。

理系人の思考法は、まず現場主義で、現場検証し、事実確認し、原因解明、実証実験の精査、検証の積み重ね、考察、結論と導いていくわけです。

科学は自然法則(特許法第2条に規定)に合った物質次元界の事件を極めることであり、

宗教は人間一人ひとりの精神次元界(魂・心・気持ち)の領域(範囲)内の変心(心を変える)事件を極めることと定義して、私が長年開催してきた種々のセミナーで伝授してきました。

科学と宗教を同じ物質次元界の事件(出来事)と捉えている人が多いため、錯綜状態、誤認混同状況が今まで延々と永遠に続いてきているので、誹謗中傷合戦が絶えないのですね。

人間一人ひとりの我儘(わがまま)が世界の人類の悲劇・不幸を起こしている根本原因になっているのです。

宗教戦争しかり、私は高校1年生(1963年)時、世界史の授業で、「隣人を愛せよ!!」と教えているにも関わらず、なぜクリスチャン同士(同志)が喧嘩・戦争・葛藤しているんだと疑問に想ったことが宗教にのめり込んだ切っ掛けですよ。

この疑問に対して、聖職者(神父、司祭、牧師、伝道師、宣教師、高僧、神主、宮司等々)のプロ達、100人にインタビューしましたよ。

皆様、異口同音的に「世界で一番の難題だよ!!」と言っていましたよ。

高校生時、こんなことも判らないでよく聖職者のプロをやっていると想ったものですね。

この問題がクリヤー出来ない限り、世界の人類の真の平安・平和は訪れませんよね。

科学と宗教を集合論的に診て、夫々分析・解析していけば、相違観が判別できます。

文系的な思考法、理系的な思考法の両方を活用すれば、新たな発見に気づかれることでしょうね。

毎日毎日が新たな発見(気づき)であり、発見出来たことへの感謝の日々になるように精進しています。

本件テーマに外れてしまった点も大いにありますがお許し下さいね!!


感謝





本件テーマ:http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=372165&id=81581756




2 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年09月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930