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2017年09月14日00:51

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2362日目からの続き・・・義民=ギミン=嬀(女+爲)罠?

 2362日目からの続き・・・
ーーーーー
 義民(ギミン)
 飢饉などで人々が困窮しているときに
 一揆の首謀者などとなって
 私財や生命を賭して活躍した
 百姓
 転じて幕末の
 尊皇攘夷運動において
 私財を賭して国のために奔走した
 町民・商人なども呼ばれる・・・
  ↓↑
 義人
 江戸時代初期を中心に
 各地の郷土史には
 義民伝説が残る・・・
  ↓↑
 伊東 長実(いとう ながざね)
 戦国時代から江戸時代前期にかけての
 武将、大名(外様大名)
 備中国
 岡田藩初代藩主
 永禄三年(1560年)
 尾張国
 岩倉の国人
 伊東長久の長男として生まれ
 日向国
 飫肥藩の
 伊東氏と遠祖を同じ
 天正元年(1573年)
 小谷城攻めから
 織田氏に仕え
 羽柴秀吉配下につけられ
 大母衣衆に抜擢され
 別所氏攻めで功績を残し
 織田信長より脇差を与えられた
 その後も
 秀吉配下として各地を転戦
 黄母衣衆24人の一人に列せられた
 天正十八年(1590年)
 小田原征伐に従軍
 山中城攻めの際には一番乗り
 天正十九年(1591年)
 備中川辺
 1万300石を与えられ大名
 文禄・慶長の役
 肥前国
 名護屋に駐屯
 慶長五年(1600年)六月十六日
 会津征伐に向かうため
 下野国小山にいた
 徳川家康にいち早く
 石田三成の挙兵を知らせた
 大坂の陣では豊臣方として入城
 大坂七手組頭の一人として
 家康に敵対したが
 青木一重と共に
 大名として存続することを許された
 殆どの豊臣方の大名が領地を取り上げられる中
 この処置は異例であり、
 密偵的な活動を行っていた・・・?
 晩年に剃髪し
 宗徳と号
 寛永六年(1629年)二月十七日
 死去・享年七十
 家督は次男
 伊東長昌が継いだ。
  ↓↑
 岡田藩
 備中国
 下道郡
 岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)
 岡田陣屋に藩庁を置いた
 江戸時代初期から廃藩置県まで
 伊東氏
 一貫して10代にわたり藩主
 石高は1万石余
 陣屋は幾度かの移転を経て
 元禄年間には
 西国街道
 川辺宿(倉敷市真備町川辺)
 に陣屋を置き
 川辺藩とも呼ばれる
  ↓↑
 新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう)
 備中国下道郡(総社市)の
 農民一揆
 民衆騒動
 この事件で犠牲となった
 4人の村民を
 新本義民四人衆
 と呼ぶ
  ↓↑ 
 慶長二十年七月(1615年)
 岡田藩
 初代藩主
 伊東長実
 が藩領の
 備中国十か村にある村民の
 共有林である
 入会山を順次取り上げ
 藩有林としていった
 岡田藩領であった
 下道郡新庄村・本庄村(総社市新本地区)
 1661年(万治四年・寛文元年)頃
 より
 入会山の藩有化が行われ
 藩側は山を造林し
 「留山」として村民の入山を禁じた
  ↓↑
 1716年(正徳六年・享保元年)頃
 残されていた共有山であった
 新庄村の大平山
 本庄村の春山の大部分を取り上げ
 造林を伐採し、割り木・用材とし、
 それを藩庁のある
 岡田村(倉敷市真備町岡田)まで
 運搬することを
 村民に命じ
 村民に支払われる運賃は
 1駄(約42貫)4分5厘という低い額であった
  ↓↑
 低賃金
 重労働
 農作業
 その他生活の時間が奪われ
 生活に支障を来す事態となり
 新庄・本庄両村民(203人)は会合を開き
 留山とされた山の返還と割り木・用材運搬の中止を
 嘆願
 それらを主な内容とした
 三箇条の嘆願書を作成し
 享保二年(1717年)
 藩側へ提出したが藩と村民の意見は対立
  ↓↑
 川辺村の
 蔵鏡寺住職など識者が仲裁を行い
 数度にわたる藩側と村民側との話し合いが行われ
 結果、一部の山を開放し、下草を取ることが許可
 同年三月十五日
 村民側は会合を開き
 開放に制限があることに不満があるも譲歩し
 村民は全留山の開放を求めることを誓い
 神文誓書を作り、
 鎌で切った指の血で署名し
 本庄村にある稲荷山の大岩の下に埋めた・・・
 四月十四日
 住職等の協力の下
 藩と村民の間に正式に調停が成立
 享保三年(1718年)
 藩側が開放許可された山において
 許可していない
 木々の伐採行為が行われていることを疑い、取り締まりを強化
 十二月三十日
 盗伐発覚
 藩は盗伐調査を行い、盗伐者の出頭を命令
 藩と両村民は激しく対立
 庄屋が投獄
 村民は江戸の屋敷にいる藩主
 伊東長救に直訴を決め
 松森六蔵(まつもり ろくぞう)
 荒木甚右衛門(あらき じんえもん)
 森脇喜惣治(もりわき きそうじ)
 川村仁右衛門(かわむら にえもん)
 の4人を村民代表として選出
 要求書を持たせ
 二月十三日
 江戸の藩主の元へと派遣
 数日後、4人は無事江戸へと到着し
 藩主への要求書提出を成功
 嘆願要求は
 ほぼ内容通り実現
 それと引き替えに
 4人の村民代表は反上の罪により処刑
 その家族は国外追放
 財産没収
 家屋取り壊しとなった
 享保三年六月七日(1718年7月4日)
 新本川の飯田屋河原で
 村民の目前で4人は打ち首
 六蔵77、甚右衛門44、喜惣治36、仁右衛門44
 罪に問われた者は多く、60名弱に及んだ・・・
  ↓↑
 村民は四人を
 義民と呼び
 それぞれの出身地
 仁右衛門は本庄村稲井田集落
 他の3人は
 新庄村小砂集落内(西明寺)
 に墓を建てた
  ↓↑
 慶長二十年(1615年)七月
 岡田藩が領内の共有林・入会山を藩有(留山)化
 万治四年/寛文元年(1661年)頃
 新庄・本庄両村内の入会山の留山化
 正徳六年/享保元年(1716年)頃
 新庄・本庄両村の大部分の入会山が留山
 留山を伐採して用木とし
 岡田村まで運搬する賦役が始まる
 享保二年(1717年)一月
 会合で三箇条の嘆願書を作成
 藩へ提出
 後日、村民と藩の間で会合
 3月15日 - 神文誓書を稲荷山の巨岩下へ埋める。
 4月14日 - 村民と藩の間で制限付きで留山が
      一部開放する調停が成立する。
 4月24日 - 引き渡された山と留山の境界に杭が打たれる。
 4月25日 - 村民一同で祝いをする。
 9月15日 - 藩が留山の取り締まりを強化。
 12月30日 - 村民が藩の指示を守らず、相当数の立ち木を伐採。
 享保3年1月15日(1718年2月14日)藩の役人が村の状態を調べる。
 2月8日 - 盗伐の疑いがある村民51人に出頭が命じられる。
 2月9日 - 村民は誰一人として出頭せず。
 2月10日 - 庄屋が投獄される。
 2月12日 - 村民は会合を開き、江戸の藩主への直訴を決める。
 2月13日 - 逃散を装って、代表者4人が江戸へ向かう。
 2月14-17日 - 村民一同が、庄屋の帳面につく。
 2月29日 - 代表4人が江戸へ到着。
 3月4日 - 藩主へ直訴を成功させる。
 3月19日 - 村民15人が投獄される。
 5月29日 - 代表4人が有井村の牢に投獄される。
 6月7日 - 村内の川原にて、代表4人の処刑が実行される。
 6月16日 - 代表4人の親族が国外へ追放される。
  ↓↑
 義民社
 新本義民騒動で犠牲になった
 義民四人衆に深い感謝と哀悼の意を示し
 その霊を手厚く弔うために、
 騒動後に
 新庄・本庄両村民が建立した
 祠・神社
  ↓↑
 義民碑
 総社市新本地区
 薙田
 にある石碑・記念碑
 字は犬養毅
  ↓↑
 起誓岩
 新本の稲荷山にある岩
 享保二年三月十五日(1717年4月26日)
 岡田藩の提示した制限付きの御留山開放を
 新本村民が会合を開き
 不満があるも譲歩しこれを受け入れた際に
 将来の全留山返還を目指すことを決意し
 神文誓書を作成し
 鎌で切った指から流れる血で署名し
 これをこの岩の下に埋めた
  ↓↑
 佐倉惣吾(木内惣五)
  江戸時代初期の下総国佐倉藩領の名主。義民伝説が伝わる
 松木庄左衛門
  小浜藩領承応元年一揆(1652年、若狭国小浜藩)の義民
 杉木茂左衛門
  磔茂左衛門一揆(1681年、上野国沼田藩)の義民
 鈴木三太夫
  相模国海老名郷大谷村(旗本領)の名主。1684年刑死
 多田加助
  貞享騒動(1686年、信濃国松本藩)の指導者
 新本義民四人衆
  新本義民騒動(1717年、備中国岡田藩)の指導者
 鈴木源之丞
  籾摺騒動(1753年、下野国宇都宮藩)の指導者
 清水半平・中沢浅之丞
  宝暦上田騒動(1761年、信濃国上田藩)の指導者
 忍足佐内
  西領騒動(1770年、安房国勝山藩)の義民
 本間辰之助
  天保義民事件(1840年、出羽国庄内藩)の指導者
  前代未聞だった藩主擁護のための直訴を企てる
  ↓↑
 死罪とされたのは直訴の行為そのものが理由ではなく
 村落共同体内部で事前に話し合いを持ったことが
 幕府や藩が禁じる
 「徒党の禁止」に該当したため
  ↓↑
 義民
 飢饉などで人々が困窮しているときに
 一揆の首謀者などとなって
 私財や生命を賭して活躍した百姓のこと
 転じて幕末の尊皇攘夷運動において
 同様に私財を賭して国のために奔走した
 町民・商人などもこう呼ばれる
 義人とも言うが
 江戸時代初期を中心に
 各地の郷土史には
 義民伝説が残っている
  ↓↑ 
 義
 人間の行動・志操・道徳
 「よい・ただしい」とされる概念
 義人
 「堅く正義を守る人・わが身の利害をかえりみず
  他人のために尽くす人」
  ↓↑
 中国北朝
 「邑義・法義」という名称が用いられ
 朝鮮半島や日本では
 「知識」の名称が用いられた
 仏教が伝来した
 魏晋南北朝時代
 戦乱によってそれまでの
 血縁・地縁集団が解体されて
 人々が移住を余儀なくされ
 そうした中で大乗仏教が持つ
 利他思想と他者と結びつく
 救済するという
 中国の義の観念が融合し
 仏教徒の間で
 血縁や地縁を越えて共同して
 造寺・造仏・慈善事業が行われた
 仏教奨励と廃仏政策の間で揺れ動いた
 北魏の
 邑義・法義の願文などには
 皇帝を称賛する文言を入れることで
 仏教徒が国家への忠誠を示す場としても用いられた
 朝鮮半島や日本では
 「知識」の語が用いられ
 現存する仏像の願文に記された文言などから
 6世紀の
 高句麗で
 「知識」という語が生まれて
 百済・新羅・倭国(日本)に伝えられた・・・
  ↓↑
 ユダヤ教,キリスト教においては
 「神の義」の意味で用いられる
 義は普通の倫理的な意味における
 「正義」とは異なり
 唯一神の属性で
 それにのっとることこそ
 人間の義なる正しき生活の規範とされた
  ↓↑
 旧約聖書での神の義
 神ヤハウェの
 動的啓示的行為
 ユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し
 律法を遵守するとき民が救われる
  (イザヤ書 45・8,51・5〜7など)
 新約聖書での義
 ユダヤ教の義の延長上にあるが
 パウロにより徹底的に深化され
 律法によらず
 キリストを信じることにより
 恩恵的に与えられるもの (ローマ書4・11,13など)
 この信仰による義においては
 人間の生は
 「義の武器として神にささげ られた(同6・13)」
 信仰によって義とされることを
 義認
 あるいは
 義化(dikaiosis,justificatio)・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・キリキリキリ・・・「義の理・切の利・錐の利・桐の里・姫の理・鬼の里」・・・
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