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昨日亡くなられた日野原重明氏は、よく子どもたちを集めては「命の授業」を行っておられたようである。その授業のなかで日野原氏は、
「命とは時間である。わたしたちは自分で使える時間を持っている。だからその時間を他者のために使うようにしてほしい」
と、語っておられたようである。
わたしはこの�猝燭六�間�瓩箸いζ�野原氏の言葉に注目している。というのも20世紀代歳の哲学者であるマルティン・ハイデッガーも�狢減澂瓩鬮犹�間�瓩亡垳気靴討い襪�らである。
わたしたちの命が何故尊いのか。それはすべての命は一回限りの終りのあるからである。�狢減澆陵�限性�瓩砲△襦�あらゆる命の尊さは、それが一回限りの有限的なところにある。
さらに日野原氏は、
「本当に大切なことは目に見えないことである。」
とも語っておられる。
命も時間も�猝椶妨�えない�瓩里任△襦�その�猝椶妨�えない�瓩里世�らこそ、�狢臉抬瓩蚤困い里任△襦�
わたしは、大谷大学大学院修士課程一回のとき、西谷啓治先生のハイデッガーの『有と時(Sein und Zeit)』の文献研究の授業に出た。あのとき、西谷先生がハイデッガーが第一次世界大戦を意識しながら、『有と時』を書いていたと話されたのを未だに覚えている。
第一次世界大戦下のドイツでハイデッガーもいつ召集令状により戦場にいかなればならなくなるのかという緊張感のなかで、ある意味自身の�犹爿瓩箸いΔ海箸噺�かい合うなかで、『有と時』を書いていたということに、西谷先生はハイデッガーが『有と時』を書きあげているその現場に立ち会われていたのではないかと思えるほどの読み方をしておられたのを覚えている。
「命は時間である」というとき、その命という時間には�犹爿瓩箸い�終りがある。その�犹爿瓩砲い�に向き合うのかということによって、その人の生き方もまた変わって来る。
日野原氏は、クリスチャンでもあったと聞く。それゆえに、その�犹爿瓩悗慮�きあい方を真摯に考えておられたように思えるのである。
「命は時間である」という日野原氏の言葉から、そんなことを考えたのである。
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