最近のアニメ、コミック、特に顕著なのがラノベの世界で、なのだが、
いわゆる「俺つぇー」と称される主人公が圧倒的な強さを誇る作品をよく見かける、
TVアニメにもなり、一番周知されている作品で言えば「ワンパンマン」になるのだろうが、
強すぎる主人公と言うのは面白みに欠ける、と言う論を散見する、
その気持ちはよくわかる、戦略上や戦術での駆け引きはともかく、
実力行使の場になると、主人公が圧倒するのがセオリーなのだから、
実力伯仲、と言う場面が存在しない、
感覚的に言うならば、
ドラゴンボールで言えば、スーパーサイヤ人になる前の孫悟空が、
フリーザと対決したような絶望的な戦況がない、
「俺つぇー」的な作品の多くは、
スーパーサイヤ人孫悟空が天津飯やクリリンと対決するような感じで、
そもそも強さのレベルが異なる対決ばかりになる、
それらの作品をいろいろ見てきたが、
なぜこういった舞台設定やキャラ設定でもウチとしては楽しめるのだが、
それはなぜだろうか、と考えたところ、
拮抗した戦況や勝敗の行方の分からないストーリーと言うのは、
すでにお腹いっぱいなのではないだろうか?
それまでの少年誌の多くであった対戦や対決のある物語で、
勝つか負けるか、勝敗の行方を楽しみにしていた作品は列挙に暇がない、
勝負の推移を固唾を飲んで見守る、と言うのに疲れたのかも知れない
ラーメンで重要な要素はスープと麺、それと具だが、汁なしラーメンと言うものもある、
拮抗した勝負と言うスープを抜いたとしても、
ラーメンとして成立する事はありうる、
少なくとも今まで拮抗した勝負を多く見てきた日本の読者には、
濃厚で濃密な勝負はお腹いっぱいで、
勝敗に関しては、さっくりと先の読めるストーリーを、
受け入れられる土壌が日本では出来ているのではないだろうか?
今、ここまで書いていて、ふと思ったのが、
ウチは宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999をリアルタイムで見ていた世代で、
松本零士の作品を多く見てきた、999は全巻揃えた口だ、
しかし、今、氏の作品を熱心には見ようと思わない、
なぜかと自問自答するなら、
氏の根幹にある零士的男のロマン、ミステリアスな女性と言うのは、
もうお腹いっぱいなのだ、と振り返る事が出来る、
アイドルについても同じような事が言えると思う、
何が何でも清純派、と言うセオリーがあって、
それがだんだん崩れてきた、
某アイドルのイベント中の結婚発表はどうかと思うが、
型にはまったストーリーと言う図式があって、
それを踏襲した作品が多く生まれ、
それらを存分に楽しんだ後は、
徐々に型が崩れてくる、
何らかの型、何らかのセオリー、何らかの要素を欠いたストーリーを楽しむ、
これも時代の移り変わりなんだ、と思う
型が崩れるセオリーを外す、と言う点で言えば、
宮崎駿、監督であり脚本家であり漫画家でもある氏だが、
ずぼらで無頓着、だらしない女性のヒロインを描いて欲しい、と欲するのは、
一読者の願望としては無理難題なのだろうか?
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