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2017年05月27日00:50

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 【質問】 阿只抜都って誰?(下書き)

      画像検索でテキトーにぐぐってきた「白馬に乗った美少年」候補

 【質問 kérdés】
 阿只抜都って誰?
 3行以上で教えて!

 【回答 válasz】
 阿只抜都(アキバツ 아지발도)は,『高麗史』および『朝鮮王朝実録』に登場する,14世紀の倭寇の首領の名前.
 李成桂に討たれたとされるが,正体や出自等は不明.
 抜都(バドゥ)は蒙古語には割とある名前であるし,高麗は末期まで元朝の影響が強かった.
 また,済州島(チェジュド)には元に支配された時代の牧場があったと言われ,この島の住民がこの時期の倭寇に大きく関わっているらしいという話もある.

 そもそも「倭寇」「倭人」といわれる人々は,単純な「日本人」ではなく,日本でもない朝鮮でもない境界上の地域・海域に住む,帰属のあいまいな人達のことを指すのではないか,と言われるようになっている.
 当時の朝鮮側の認識でも,「倭人」と「日本人」は別種の存在とされるときもあったという.
 最近では海外の研究の影響を受けて,こうした境界上に住む帰属のあいまいな人間たちのことを「マージナル・マン」という言葉で呼ぶ学者もいるという.

 少なくとも,日本人的な名前でないことだけは確かである.

 「高麗史」,「高麗史節要」によれば1380年9月,倭寇が500艘の軍勢で攻め寄せた.
 その首領の名が阿只抜都で,15,6歳の美貌の少年であり,白馬にまたがって槍を振り回し,向かうところ敵無しであったという.
 正直言って,この辺りから早くも話が嘘臭くなっている.

 鎮浦に停泊した船団は軍勢を上陸させ,密集して城壁のように防御態勢をとった.
 これが逆に仇となり,羅世,崔茂宣率いる水軍の(朝鮮半島国家で初の)火砲攻撃により撃沈された.
 このあたり,赤壁の戦いの話をなぞっているような気がしないでもない.

 船を失った倭寇は,陸地で暴れ回り始める.
 8月には咸陽を陥とし,高麗兵500人と将軍2人を戦死させると,9月には南原を包囲.

 その討伐のため,軍を率いて出陣したのが,かの李成桂(イ・ソンゲ 리성계).
 倭寇も恐れを知らず,成桂も左足に矢を受けるほどの激戦となった.

 成桂はアキバツを生け捕りにしようと図ったが,配下の李豆蘭が
「生け捕りにしようとすれば,さらに死傷者が出ます.
 それに全身,顔面まで防具をつけていて,射る隙がありません」
と言って反対した.
 ちなみに,この時代の日本(南北朝時代に当たる)には,顎と頬を覆う「頬当」という防具はあっても,顔面全体を覆う「面頬」は無い.
(面頬が登場するのは16世紀後半,戦国時代になってから)
 中国・朝鮮・モンゴルの甲冑にも顔面防具は存在しない.

 成桂は
「では自分が兜を射落としてやる」
と言い,まずアキバツの兜の緒を射て,これを切った.
 アキバツが兜を被り直そうとしたところを,成桂は二の矢を放ち,兜を射落とした.
 直ちにその隙を狙った豆蘭が,アキバツを射殺.
 首領を失った倭寇は意気喪失し,散々に討ち滅ぼされた.
 川の水は赤く染まって,数日は色が変わらず,また,成桂軍は千数百頭の馬を鹵獲したという.
 …いや,それ,絶対に話を盛ってるだろ?

 倭寇残党は智異山に逃げ落ちたが,70余人に過ぎなかった.

 この戦いは「荒山大捷(荒山の大勝利)」と呼ばれ,その名声が後に李成桂が勢力を築くきっかけの一つとなった,とされている.
 そして李氏朝鮮では,太祖の輝かしい功績として長く語り継がれたという.

 …が,各所に盛られている部分があるような話なので,9割引きくらいで聞いておくのが正解か.

 【参考ページ Referencia Oldal】
姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書,2001),p.174
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/wakou.html
https://kotobank.jp/word/阿只抜都
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/izen.html
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