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2017年04月15日00:49

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4月15日の日記

今日の出来事:1583年−天正壬午の乱:岩尾城の戦い、1869年−明治政府が円貨の制度を定める、1877年−西南戦争:植木・木留の戦い、鳥巣の戦い、1945年−京浜大空襲・川崎大空襲、1983年−東京ディズニーランド開園

今日は、天正壬午の乱:岩尾城の戦いです。依田信蕃は、武田信玄に信濃先方衆として仕えました。武田信玄の死後は引き続き、子・勝頼に仕えました。「長篠の戦い」では、遠江・二俣城の守将を務めた父・芦田信守と共に、信蕃・信幸兄弟も籠城して抵抗しました。しかし、武田軍が大敗して徳川家康が率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守りました。この間に病床にあった父・信守が死去し、依田信蕃が守将となって籠城が続行されました。徳川方は攻めあぐねて、城の周囲に複数の砦を築いて兵糧攻めにしました。半年にも亘った攻防の末、力攻めでは落とせないと判断した徳川方の申入れによって、全員の助命を条件に開城して高天神城に退去しました。退去の際は城内を清掃した後に、整然と退去しました。後に駿河・田中城の城将となりました。1582年、織田信長による「甲州征伐」が始まると徳川家康に田中城を攻められましたが、再び堅固に備えを立てて守りきりました。攻めあぐねた徳川家康は、成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせましたが、依田信蕃はこれを拒絶して籠城を続けました。しかし、織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族・穴山梅雪から開城を勧める書簡を受けると、大久保忠世に田中城を引き渡しました。開城後、徳川家康より召抱えの要請を受けましたが、「武田勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えて謝絶し、春日城へ帰還しました。「本能寺の変」が起こり、北条氏直との「神流川の戦い」に敗れた滝川一益が家臣・道家正栄の守る小諸城に入ると、依田信蕃は滝川一益と対面して佐久・小県郡の人質を集めて引き渡しました。この人質には嫡子・依田康国や真田昌幸の老母が含まれていました。滝川一益は、小諸城を依田信蕃に明け渡すと佐久・小県郡の人質を木曽義昌に委ねると伊勢・長島に帰還しました。その後、木曽義昌から徳川家康に引き渡されました。碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると、依田信蕃は春日城を放棄して三澤小屋に籠城しました。その後、ゲリラ戦を展開し、甲斐・若神子まで進出していた北条軍の補給線を寸断しました。甲斐衆を主体とした徳川家康の援軍(芝田康忠、辻弥兵衛、岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊)が三澤小屋に到着すると、北条方であった真田昌幸を調略し、春日城を奪還しました。「黒駒の戦い」で北条軍が徳川軍に敗北した事により、徳川方に有利な条件で北条氏との講和が成立しました。依田信蕃は、信濃・佐久郡の北条方諸城の攻略に乗り出しました。1583年に、武田遺臣・三枝昌吉と田口城を攻撃しました。城主・相木昌朝は、抵抗を諦めて小田原の北条氏を頼って落ち延びました。佐久郡の平定を進める依田信蕃は、北条方の10余城を攻略し、残るは岩尾城と小諸城のみとなりました。そして、周辺の勢力が続々と依田信蕃の下に集ってきましたが、これを好しとしない勢力が北条方の岩尾城主・大井行吉の下に集まりました。4月12日、依田信蕃は岩尾城を包囲しました。しかし、予想外の抵抗に遭って苦戦しました。4月15日、依田信蕃と弟・信幸は自ら攻め込んだところを銃撃されて討死しました。享年36でした。その後、大井行吉は徳川方の軍監・柴田康忠の説得により、岩尾城を開城しました。徳川家康は依田信蕃の功績を認め、子・竹福丸に「康」の偏諱と松平姓を与えて元服させ、松平源十郎康国と名乗らせました。松平康国は大久保忠世を後見人として、北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城と6万石を賜りました。父の菩提を弔うため、田口城麓の居館跡に蕃松院を整備しました。松平康国は、「第一次上田合戦」で初陣を飾ります。その後、相木昌朝、伴野貞長ら佐久地方の旧領主が挙兵しましたが、「木次原の戦い」で破りました。「小田原合戦」で前田利家の先導役として属し、佐久郡・白岩城、大道寺政繁の上野・松井田城、西牧城などの攻略に参加しましたが、寺尾左馬助が守る上野・石倉城を攻略中に討死します。

次に、明治政府が円貨の制度を定めるです。1871年に明治政府は、貨幣の基本単位に円を用いる事を決定しました。この時、純金1500mgを1円とする「金本位制」の導入が試みられ、20円、10円、5円、2円、1円の日本初の「洋式本位金貨」が鋳造、発行されました。この量目は米国訪問中の伊藤博文が建言したもので、当時の「国際貨幣制度確立案」として米国下院に提案中だった1ドル金貨の金純分とほぼ等しいです。また、当時明治政府が鋳造して流通していた「明治二分判」(量目3g、金純分22.3%)2枚(=1両)の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似で、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用されました。

その次に、西南戦争:植木・木留の戦い、鳥巣の戦いです。
植木・木留の戦い:3月23日に政府軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入しました。3月24日にも政府軍は再び木留を攻撃し、3月25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移しました。3月30日、政府軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領しました。4月2日、政府軍は木留を占領し、薩摩軍は辺田野に後退しました。辺田野・木留の集落は炎上しました。4月5日に政府軍本営で軍議が開かれました。4月8日、辺田野方面は激戦となり、政府軍は萩迫の柿木台場を占領しました。4月12日に薩摩軍は最後の反撃をしました。その後、4月15日に植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退きました。これを追って政府軍は大進撃を開始しました。
鳥巣の戦い:鳥巣では3月10日に薩摩軍が守備を始めてから4月15日に撤退するまで、政府軍との間に熾烈な争いが繰り広げられました。まず3月30日の明け方に、近衛鎮台の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入りました。始めは人数不足で不利な状況だった薩摩軍でしたが、伊東直ニ隊による応援もあり、政府軍を敗退させる事ができました。4月5日、第3旅団(三浦梧楼少将)は鳥巣に攻撃をしかけ、薩摩軍の平野正介隊と神宮司助左衛門隊が守備している真ん中に攻め入りました。虚をつかれた両隊は、たちまち敗走しました。これを聞いた薩摩軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦しましたが決着はつきませんでした。4月7日に政府軍がこの地に一旦見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとした事により、一時的に休戦状態になりました。一方、古閑では平野正介隊・重久雄七隊の必死の抗戦により政府軍はやむなく撤退しました。薩摩軍は勇戦し、4月9日に再び隈府に攻め入った政府軍を撃退しましたが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退しました。4月10日〜4月13日にかけて、政府軍による鳥巣の再攻略が始まりました。薩摩軍もこれに対して応戦しましたが、武器が尽きてしまった上に鳥巣撤退命令が下されたため、この地を後に大津に向かいました。

その次の次に、京浜大空襲・川崎大空襲です。米軍機が東京南部・川崎を無差別爆撃しました。
京浜大空襲:まず、羽田、大森、荏原、蒲田方面が「B−29」爆撃機・292機に爆撃されました。死者841名、焼失6万8400戸でした。
川崎大空襲:次いで、隣接している川崎市も空襲を受けました。死者1001名、負傷者15000人、罹災人口10万人、全半壊33361戸、同工場287戸を出しました。

最後に、東京ディズニーランド開園です。建設候補地は浦安市舞浜の他、長野県大鹿村、静岡県清水市、御殿場市、神奈川県横浜市、川崎市、千葉県我孫子市、茨城県ひたちなか市などがありました。東京都心に近い立地の良さから、ディズニー側はかなり早い段階から舞浜に決めていました。しかし、誘致合戦でオリエンタルランドからより良い条件を引き出すため、最後まで清水市と舞浜の2カ所を候補地として残しました。最終的にディズニー首脳陣は、日本の象徴である富士山が常に見える場所では人工物が引き立たなくなってしまうと言う表向きの理由を付けて、清水市を除外しました。なお、横浜は埋め立てで場所をとると工業地帯の用地不足になるとの事から、早い段階で候補から外されました。こうして、千葉県浦安市に「東京ディズニーランド」が建設されました。この後、京葉線が延伸開業する事になり、「西浦安駅」という名称で計画されました。千葉県と浦安市、「東京ディズニーリゾート(TDR)」を経営・運営する「オリエンタルランド (OLC)」が、駅名を「ディズニーランド駅」とする事を「東京ディズニーリゾート(TDR)」の版権を管理している「ウォルト・ディズニー・カンパニー」に提案しました。この駅名には、JR東日本も了承していました。しかし、「ディズニーランド」とは関係がない駅前の商業施設などに「ディズニーランド駅前店」という名前が付く事や、風俗店やパチンコ店などに「ディズニーランド駅前店」という名称を使用されると「夢」を売る事を事業としている「ディズニーランド」の印象が悪くなると言う事から、了承を得る事が出来ませんでした。このため、「舞浜駅」に変更されました。アメリカ合衆国フロリダ州マイアミビーチ市に因み、「舞」は「マイアミ」の「マイ」、「浜」は「ビーチ」の和訳「浜」から名付けられました。2001年には「東京ディズニーシ−」も開園しました。2013年は、東京ディズニーランド開園30周年でした。

今日の誕生日:レオナルド・ダ・ヴィンチ、金日成、戸川幸夫、田原総一朗、佐木隆三、小出義雄、釜本邦茂、范文雀、ヨネスケ、酒井和歌子、兵藤ゆき、坂崎幸之助(THE ALFEE)、小林すすむ(元ヒップアップ)、野口聡一、嶋村カオル、江藤智、椿鬼奴、木村拓也、楢崎正剛、JOY、有岡大貴(Hey! Say! JUMP)、岡田結実、トウショウボーイ、ダイイチルビー、フジキセキ、ハーツクライ

今日の記念日:世界医学検査デー、ヘリコプターの日、象供養の日、遺言の日、よい酵母の日、太陽節、日本巡礼文化の日、からあげクン誕生日、良いコラーゲンの日

今日の「今日訓」:本日は、1996年6月の「世界医学検査協会(IAMLT)代議員会」で制定された「世界医学検査デー」、ヘリコプターの考案者「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の誕生日なので「ヘリコプターの日」、1926年に始めて象供養を行った日なので「象供養の日」、1986年に「からあげクン」が誕生した事で「からあげクン誕生日」、「ゆ(4)い(1)ご(5)ん」の語呂合わせで「遺言の日」、「よ(4)い(1)酵母(5)」の語呂合わせで「よい酵母の日」、「良(4)い(1)ご(5)縁」の語呂合わせで「日本巡礼文化の日」、「良(よ)い(1)コ(5)ラーゲン」の語呂合わせで「良いコラーゲンの日」となりました。北朝鮮では金日成主席の誕生日なので「太陽節」という国民の祝日で、今年は生誕105周年です。
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