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2017年01月15日18:37

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いったいなに?

創世記では、神が複数であることが示されているニャ。

創世記 1章 26節
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

イエスはこの“われわれ”が“父と子と聖霊”であることを明らかにしたニャ。

マタイによる福音書 28章 18〜20節
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

多くの教会は、この“父と子と聖霊”は三位一体であると主張しているニャ。
この三位一体とは、“TRINITY”の訳語であり、三者のごとくに振る舞う一者と言うことなのニャ。
三位一体で言う“一体”とは、断じて、夫婦一体とかクラス一体のような言葉に出てくる比喩としての“一体”ではないのニャ。
“父と子と聖霊”による“UNITY”とは一言も言っていない点に、くれぐれも注意して欲しいのニャ。

三位一体を主張する人たちは主の御使いが神的人格として描かれていると、いくつかの個所を証拠としてあげているニャ。
例えば、創世記の16章7~13節、18章1~21節、19章1~22節。

だがこれらの記述は、御使いが人と同じ肉体を持っておられることを示しているだけと見る事も出来るニャ。
また、聖霊が人格を持っていることも、論証としてあげてるニャ。
例えば、イザヤ書の48章16節、63章10節。
これも、聖霊が人格を持っているお方であると証する以上の意味があるとすれば、どういう働きをなさるかを示していることであっても、三位一体を明かしていることにはならないニャろね。

にも拘らず、三位一体を主張する人たちは、新約聖書において三位一体の教理はより明確に啓示されていると主張しているのニャ。

三位一体どころか、父と子と聖霊が明らかに独立した存在であることを示す決定的な記述があるニャ。

イエスのバブテスマの光景の記述ニャ」。
イエスがバプテスマを受けてすぐ水から上がられると、天が開け、神の御霊がはとのように下って、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と声がしたのニャ。
マタイによる福音書3章16〜17節、マルコによる福音書1章10〜11節、ルカによる福音書3章21〜22節、またヨハネによる福音書1章29〜33節も天からの声記さない事を除けばあとは大筋で一致しているニャ。

また、天からの「私の愛する子」の声は、イエスが高い山にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示した時にもあったニャ。
マタイによる福音書17章1〜9節、マルコによる福音書9章2〜8節、ルカによる福音書9章28〜36節。

天からの「私の愛する子」の声の主が、神としての天の父であることは言うまでもないニャろね。

イエスはこう言われたニャ。

ヨハネによる福音書7章16〜17節
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

この「わたしをつかわされたかた」と言う言葉は、マタイによる福音書には繰り返し出てきているニャ。
4章34節、5章24節と30節、6章38〜39節、7章16節と28節、8章16節と26節と29節、9章40節、12章44~45節、13章20節、15章21節、16章5節。

イエスはゲッセマネの園で、祈られたニャ。

「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
マタイによる福音書26章39節、言い回しは多少違ってもマルコによる福音書14章36節、ルカによる福音書22章42節もこの言葉に触れているニャ。
ヨハネによる福音書だけは、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」(18章11節)とゲッセマネの祈りの場面を割愛しているけれど、イエスが御父の御心に随う決意をされていることを記しているのニャ。

これ以外にもイエスは天の父の御心を伝えに来たことや実践をしに来たことを述べていたことが、新約聖書の至る所で記されているのニャ。

そう言うと、三位一体を主張する人達はヨハネによる福音書10章30節の「わたしと父とは一つである」を引用するかもしれないニャ。

けれど、イエスはゲッセマネの祈りでこう仰っておられるのニャ。

ヨハネによる福音書17章22〜23節
わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

ここでイエスの仰る「わたしたちが一つである」とは「わたしと父とは一つである」と同じことニャ。
そして「一つ」も同じことを指しているニャ。

ここで言う「一つ」が思いを完全に一致させることを指していることは、誰が見ても明らかでニャ。

さらに言えば、「わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました」とイエスが述べておられることを見落として良いはずがないのでニャ。

「わたしと父とは一つである」、「わたしたちが一つである」と言う言葉がもしも三位一体を指しているとしたら、イエスはイエスご自身に対して「あなたからいただいた栄光」と言っていることになり完全におかしな事となるのでニャ。

三位一体の言葉は聖書のどこにも書いてないばかりか、論拠とできる記述自体見つけることは絶望的なまでに不可能なことなのニャ。

聖書には“父と子と聖霊”の明確に独立した存在として役割分担をしつつも思いを一つにして救いの御業を遂行しておられる姿は繰り返し描かれているが、三位一体を証する明確な言葉は一つとして見いだすことはできないのニャ。

“TRINITY”(三位一体)の論証として彼らの挙げる箇所はことごとく、“父と子と聖霊”の“UNITY”の証であってそれ以上でもそれ以下でもないのニャ。

“父と子と聖霊”は一つの神会を構成して心ひとつにして、救いの計画を実行しておられると見た方がすっきりするのでニャ。

絶対三神唯一神会とか、三位三体三体一位と言った方が、ちょっと長ったらしくなるけど、何回聞いても難解な三位一体より、よほどわかりやすくと思うが、いかがかニャ。
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