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2016年12月21日06:32

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日本は「学び」はしても『独立国家』だった!

「祝典行進曲」
http://m.youtube.com/watch?v=bLY4FHqsdoM&client=mv-google&guid=&hl=ja&gl=JP
[「紀元節」と「建國」「皇國」史観と「尊皇」思想要諦]
「推古天皇十五年(六○七),わが國は隋に使者を遣した.『日本書記』には,「大礼小野妹子を大唐に遣はす」とある.これに対応する『随書倭國傳』の文には,「其の國書に曰く,『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す.恙無きや云々』と.帝これをみて悦ばず.鴻臚卿に謂って曰く,『蛮勇の書,無礼なるものあり,復た以て聞することなかれ』.」(隋の煬帝はこの國書を見て喜ばず,外務担当の大臣・鴻臚卿に『野蛮人の國書は無礼である.聞くことはない』と言った)と記されてゐる」
「また,『日本書紀』 巻十四の「雄略天皇七年の条」には,「時に,新羅,中國(みかど)に事(つか)へず,天皇,田狄臣(たさのおみ)の子弟君(おときみ)と吉備海部直赤尾(きびのあまのあたひあかお)とに詔して曰はく『汝,往来て新羅を罰(う)て』とのたまふ」と記されてゐる.
ここに記されてゐる「中國」とはわが國の事である.わが國は古代から,わが國が「中華」であり,西の隣の新羅・百済・高麗の三國はわが國に朝貢する「蕃國」であるといふ意識があったのである.つまり,わが國は,古代から支那の中華思想を換骨奪胎し自家薬籠中の物として,「わが國こそが中華である」との意識を確立してゐたのである」(関西戦中派の会「戦中派」第471号)
「日本とはどういう国柄か,日本人のアイデンティティは何かを考えるとき,それらを記紀の時代や武士の時代,江戸時代に,過去の日本人がどのように考えてきたかを踏まえて形成された歴史観にすぎない.もちろん,実証やテキスト・クリティックを踏まえたものであって,その最も近い淵源は江戸時代の儒学者,国学者,水戸学派などの考えが合流した幕末の歴史観であるが,昭和戦前期の歴史観もそれを改めて言い直したものであって,決して奇矯な特別なものではない.
したがって,それは幕末の尊皇攘夷の背景にもあったもので,そこから何を引き出すかは時代の要請次第なのである.「尊皇攘夷」は政治的当為そのものだから歴史観ではないが,日本の国柄を考えつづけて江戸時代に形成された歴史観から可能になったものである」(『皇国史観と尊皇攘夷』小林路義教授「異文化コミュニケーション」)

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