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2016年11月27日12:49

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濱田恂子著『死生論』を読んで―臓器移植と�狄搬療�アイデンティティ��

濱田恂子著『死生論』(未知谷)を読む。

この本を購入したのは、もう10年ぐらい以前のことである。当時、�倏昌爐寮�非�瓩�社会問題化していくなかで、人生論に代わって�犹狎枯性瓩�多く語られるようになっていった。そんななかでわたしもブームに乗って購入した一冊であった。

わたしが何故、今、この濱田恂子著『死生論』を読もうと思ったのかというと、一つには人間にとって、もっと言えばわたし自身にとって�犹爐箸浪燭��瓩箸いΔ海箸鮃佑┐討澆燭い箸いΔ海函△修靴討發Π譴弔�相模原殺傷事件に伴う�狆祿下圓噺討个譴訖佑燭舛砲論犬�る価値のない�瓩箸い�障害者に対するヘイトクライムがあった。

わたしは長年、障害者差別の根源は、障害者と呼ばれる人たちのことを知らない人によって引き起こされてきたと考えてきたし、だからこそ、健常者と言われる人たちに障害者と言われる人たちとの接する機会を増やしていこうとしてきた。

しかし今回の相模原事件の犯人はその障害者と言われる人たちに最も接してきた元施設職員であったことにわたしは多くのショックを受けているとともに、そのショックから立ちあがることができていないのである。だから相模原殺傷事件に関する雑誌や書籍を買い込んでいるのかもしれないのであるが。

この濱田恂子著『死生論』が刊行されたのは2004年で、12年前に出た書籍であった。この濱田恂子著『死生論』ではやはり�狢ヾ鎔椰↓瓩箸いμ簑蠅�取り上げられていたが、わたしが面白いと思ったのは、脳死状態にある他者から臓器を移植してもらった人の�爛▲ぅ妊鵐謄�ティはどうなるのか�瓩箸いε世任△襦�

人は身体的存在者である。生物的存在者なのである。それゆえに�犹爿瓩箸いΔ海箸�ら逃れることはできない。しかし現代医学では脳死状態にある他者から行き出しに至っていない臓器を自分の死に至ってしまった臓器と交換することは可能であり、それによって人は�犹爿瓩�ら逃れることができる。しかしその際、自分の身体のなかに他者の臓器が存在することになる。そうなった時のその人のアイデンティティは保たれるのかという問題を指摘している。わたしにはとても面白い問題定義だと思えた。言い換えれば、臓器移植という医療行為が可能となった現代において�狄搬療�アイデンティティとは何か�瓩發辰噺世┐弌↓爐錣燭靴�わたしであるというアイデンティティとは何か�瓩箸いμ簑蠅鯆鶺�しているように思えたのである。

濱田恂子氏の専門は倫理学で、しかも倫理学を専門とする学者には珍しくキェルケゴールに関する著作が多い。わたしが濱田恂子氏のことを知ったのは大学院時代のことで、濱田純子著『キェルケゴールの倫理思想―行為の問題』(新地書房)との出会いであった。当時、西谷啓治先生のゼミのテキストがキェルケゴールの『死に至る病』であったこともあって、キェルケゴールを少し読みだしていた。そんな時に出会ったのが濱田純子著『キェルケゴールの倫理思想―行為の問題』であった。キェルケゴールの思索については、�狃ゞ掬�学的・実存哲学的�瓮▲廛蹇璽舛�多いなかで、�猯冤�学的�瓩縫▲廛蹇璽舛靴討い厨静鍔�子氏の子の著作が面白く思えたのだ。

濱田恂子著『死生論』を購入したのも、わたしが濱田恂子氏が論じる�犹狎験忰瓩剖縮�をもったからであろう。購入して10年以上が経っていま読んだことには、わたしの�爐い洵瓩隆愎柑�があったからである。書籍との出会いには二度ある。一度目は目次や解説文等を読んで面白いと思った時、そして二度目は実際にその書籍を読もうと思う時である。だから書籍はまず面白いと思うと買っておくことが必要なのだ。

しかし濱田恂子著『死生論』に書かれた、、脳死状態にある他者から臓器を移植してもらった人の�狄搬療�アイデンティティ�瓩呂匹Δ覆襪里任△蹐Δ�。そんなことを考えている。
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