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2016年11月06日08:14

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感性のふくらみ:北斎の描くことへの欲望

 「意志」や「意欲」は学校で使っても文句など一切出ない語彙だが、「欲望」や「性欲」となると使うのが憚られる語彙。なぜと問われても困るが、それが自然言語の特徴の一つ。葛飾北斎は今でも人々の心を掴む超一流の画家。彼の風景画の構図や題材は新機軸に溢れている。北斎は浮世絵だけでなく、洋画や春画にも秀でていた。北斎にとって描くことが人生、描くこと以外は意味のない、正にプロの絵師だった。
 北斎は小さい頃から手先が器用で、14歳で版木彫りの仕事につく。彫りながら自ら描いてみたいと思うようになり、1778年18歳で人気浮世絵師の勝川春章に入門。好奇心に富む北斎は、浮世絵に飽き足らず、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学ぶが、これが発覚、春章から破門される。生活に窮した北斎は、灯籠やうちわの絵を描いたり、行商までする。だが、絵の仕事はやり通すと決め、朝の暗いうちから夜更けまで筆を走らせたという。
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 当時の浮世絵師にとって風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったが、北斎はオランダの風景版画に感銘を受け、風景を主題とすることに魅了される。だが、貧乏生活は続く。北斎は本の挿絵、役者絵、美人画、武者絵、果ては相撲画まで何でも描くしかなかった。
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 1814年、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを収めた『北斎漫画』を発表。町人が割り箸を両鼻に突っ込んでいたり、達磨が百面相を作っていたりと実に面白く人々の形態を捉え、大きな人気を得た。その筆運びは軽妙で自由奔放である。
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 北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰富士に感動し、その後何年も構図を練り、あらゆる角度から富士を描き切ったシリーズもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士を描き、まるで富士を中心に宇宙が広がっているかの如くである。同時に、庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子はすっかり心を奪われた。
 その後も北斎は富士を描き続け、74歳で『富嶽百景』を完成させる。だが、その頃には、30代の若い天才絵師広重の風景画に人々の関心は移っていた。北斎の人気に陰りが見え、再び借金が増え出す。そこへ天保の大飢饉が起こる。老いた北斎は最初の妻、二度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳の時には火災にあい、描き溜めてきた全ての写生帳を失う。それでも北斎の気力、欲望は変わらない。
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 火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を若い画家に伝えようと、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた『絵本彩色通』、手本集『初心画鑑』を描き残した。この時すでに87歳。なおも、北斎の絵に対する執念は衰えない。1849年4月18日、浅草の長屋で病み、燃え尽きる。死を前にした90歳の北斎は「天我をして五年後の命を保ためしハ真正の画工となるを得べし」と残している。
 描き切りたいという北斎の欲望は一体どこから来て、どこに向かうのか。年齢を超越した感性が晩年の絵に浮き出ている。

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