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2016年10月31日08:15

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白瀬のぶ 南極制覇の夢 1861〜1946

昨日の読売新聞 日曜版の第一面は
白瀬のぶ(のぶ、という漢字は、直という字三つで一字)
だったので、検索すると、一番目から順次、それぞれ
内容のある中身だった。

私は、小学校の道徳の時間に、白瀬氏の話を聞いた事がある。
日常と隔絶した 南極の話しは 印象的で はなはだ珍しかったが、
あまりにもストイックで縁遠い話しだった。

総合すると、白瀬氏は 1861年に秋田の南部の寺の長男に生まれ、
弟がいて、この弟の孫娘さんの京子さんは、女性ヨットで単独世界一周 第一号。
白瀬氏 本人には 娘さんが二人おられるようだ。

白瀬氏は 寺子屋の師匠から色々な冒険談を聞き、
腕白ぶりを諫められた事もあり、当時、未踏破の北極へ情熱を持つ。

当時の秋田には、キツネどころか、狼もいたらしい。

師匠から戒められた 禁酒、禁煙、以下の教えは死ぬまで守った。
そのためか、80歳を超える長寿を全うし、腸閉そくで亡くなる。

夢見る男となった白瀬氏は、まず、ロシアから移譲された千島へ行く事を勧められる。
しかし、この探検参加では、二桁の隊員のほとんどが、
越冬中に 壊血病などで死んでしまう。
生還した白瀬氏は、戦争で二か所負傷し、中尉に昇進する。

40歳を超えた時、北極は海外で制覇されてしまい、
一生の夢を失った氏は落胆するが、南極に夢を乗り換える。

しかし、刻々と海外の遠征隊が活動する中、
氏は 政府に嘆願するが、政府は認めたものの、援助は無い。
氏は 大隈重信と朝日新聞の援助を得るが、
千島の時に喧嘩別れした旧知の知人から預かった船は小さな漁船だった。
この小さなサケ漁の中古船を見た朝日新聞は援助を止める。

もっとも、当時、ちゃんと政府の援助を受けたイギリスのスコットの船も
何倍も大型だったとは言え、帆船に補助エンジンを付けた船だった。
ノルウェーのアムンセンの船も同様だった。

スコット隊は、南極点初到達を達成するが、帰路、全滅する。
白瀬氏は 赤道で食料が腐ってしまったり、29頭の犬がサナダムシで
全滅しかけたり、隊員同士の対立も激しく、気候が限界点を越したので、
南極点到達は諦めたが、全員無事で帰還した。
(日本からの出航が3か月遅れたりしたせいで、
ニュージーランドで、一旦、出直している)

一生の夢を諦め、隊員の命を優先させた事は素晴らしい。
南極では、太陽が当たった側は ややぬくもるが、
反対側は ますます冷たいなど、想像を超える現象が起きる。

また、日本領土を宣言した場所が陸地であるかどうかも
白瀬には 確認する手段が無かったようだ。

アイヌ出身の隊員は、南極で犬を見殺しにしたのは
アイヌの掟に反したと、帰国後、制裁されたそうだ。
アイヌの人達の動物に対する感情の厚さを感じるエピソード。

南極では、写真に色々な記録を撮った。
ペンギンを隊員達が抱いた写真もある。

日本政府は無言だったが、南極に残された日の丸は認められ
白瀬の名は 地図に残されたが、
大和雪原の名は日本の地図にしかないそうだ。

おそらく、生死不明になりかけたせいと思われるが、
日本の南極制覇の事務局は 
白瀬の留守中に義援金を遊行費に使ってしまった。
白瀬は、講演旅行を重ねて その後始末をやり遂げた。
娘さんが同行した。

白瀬は 1946年に亡くなるが、後年の西堀南極越冬隊長は、
11歳の時に、京都の南座での白瀬の講演を聞いていた。

登山家で、東芝で真空管製造のマニュアルを作った西堀氏の事は、
高校の教科書で、読んだ気がする。
西堀氏は 京大の学生時代に 来日したアインシュタインの
通訳をされたそうで、「雪よ、山よ、」の雪山賛歌の作詞者。
はて、通訳は英語だったのか、ドイツ語だったのか?

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