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2016年10月06日00:57

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10月6日の日記

今日の出来事:1569年−大口城の戦い、1581年−直江信綱殺害、1868年−会津戊辰戦争:母成峠の戦い、1932年−赤色ギャング事件:日本初の銀行強盗事件、1969年−千葉県松戸市役所(市長・松本清)が、市民の苦情にすぐ対応する「すぐやる課」を設置

今日は、大口城の戦いです。「紫原の戦い」で薩摩を統一した島津貴久は、大隅に進出しました。1554年、「岩剣城の戦い」で島津軍は蒲生軍を撃破しました。島津貴久は続いて、1555年に帖佐平佐城を攻略し、1556年に松坂城を攻略しました。支城3つを失った蒲生氏は、本拠の蒲生龍ヶ城を火をかけると祁答院へと逃げ帰りました。1567年、島津貴久に降っていた菱刈重猛が没すると、遺児・鶴千代を擁立した弟・隆秋は島津貴久に反旗を翻しました。島津貴久は大軍を率いて馬越城を攻めました。馬越城が落城すると菱刈一族は大口城に集結して、肥後の相良氏に援軍を求めて抵抗しました。しかし、1569年10月6日、菱刈隆秋は島津氏に降伏しました。一命を助けられた菱刈隆秋は、相良義陽を頼って肥後・人吉へ落ち延びました。大口城には、家臣・新納忠元が入りました。この後、祁答院氏をはじめとする大隅の国衆が島津貴久に降ります。こうして、「島津の英主」と称えられた島津貴久は西大隅を手中に治め、1571年に死去します。しかし、島津貴久の遺志は息子達「島津四兄弟(島津義久、義弘、歳久、家久)」に受け継がれていきます。翌年には日向の伊東氏を「木崎原の戦い」で撃破、さらに肝付氏を服属させ、島津家は薩摩、大隅、日向と三州の太守としての地位を確立させる事になります。

次に、直江信綱殺害です。直江信綱は、越後・与板城主です。元は総社長尾家の出身です。上杉家の重臣・直江景綱の娘・船と結婚して婿養子となり、直江与兵衛尉信綱と名乗りました。1577年に養父・直江景綱が死去すると、直江氏の名跡と奉行職を継いで馬廻として上杉謙信に仕えました。1578年の上杉謙信の急死後に勃発した「御館の乱」では上杉景勝方に付きました。上杉景勝と共に春日山城に籠り、与板城に残る直江氏一族や配下の与板衆を動員して周辺の上杉景虎派の討伐を行ないました。この功により、新当主・上杉景勝に重用されました。毛利秀広は、河田長親の与力でした。安田顕元の手引きで恩賞と引き換えに上杉景勝方へと鞍替えし、武田家との折衝役を務めるなど大きな功績を残しました。しかし、「御館の乱」後の論功行賞では恩賞がありませんでした。上杉景勝は恩賞を出す事に納得していましたが、儒者で側近・山崎秀仙の意見によって、上杉景勝出処の上田衆のみを厚遇していました。この事を知った毛利秀広は1581年10月6日、春日山城内で直江信綱と会談中の山崎秀仙を急襲して殺害しました。この時、直江信綱は身を守ろうと脇差を抜いて斬りかかって傷を負わせましたが、抵抗むなしく逆に返り討ちに遭って刺殺されました。毛利秀広は、その場に居合わせた岩井信能・登坂広重によって討ち取られました。直江信綱の死後、妻・船は上杉景勝の命令によって腹心の上田衆・樋口兼続と再婚し、直江家は兼続を当主として存続する事になりました。こうして、直江兼続が誕生します。

その次に、会津戊辰戦争:母成峠の戦いです。「江戸城無血開城」の後、旧幕府軍は北関東で新政府軍を迎え撃ちましたが、敗退しました「北関東戊辰戦争」。その後、奥羽列藩同盟軍は「白河攻防戦」で敗れ、「二本松城陥落」となりました。次の段階として、新政府軍は江戸に居る大総督府参謀・大村益次郎が「枝葉(奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」と仙台・米沢への進攻を指示しましたが、二本松に居る参謀・板垣退助と伊地知正治は逆に「根元を刈って、枝葉を枯らす」と会津攻めを主張しました。会津藩が国境へ兵を出して藩内を手薄にしている今が有利である上、雪の降る時期になると新政府軍が不利になるため、その前に会津を制圧したいというのが理由でした。その結果、板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かう事になりました。しかし、会津への進攻口を選択するにあたり、土佐藩参謀・板垣退助は御霊櫃峠(御霊櫃口)を、薩摩藩参謀・伊地知正治は母成峠(石筵口)を推して互いに譲らず、最終的に長州藩士・桃山発蔵の説得により、伊地知正治の案に決しました。会津へ入るには何ヶ所かの街道がありますが、その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)で、さらに二本松と会津若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)でした。会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測しました。しかし、新政府軍は母成峠へ板垣・伊地知が率いる主力部隊1300と土佐藩の谷干城が率いる勝岩の台場へ向かう兵約1000、さらに別働隊として薩摩藩の川村純義が率いる300を送り、中山峠には陽動部隊800を先に派遣しました。旧幕臣・大鳥圭介は新政府軍主力が母成峠に向かった事を的確に把握していましたが、手持ちの兵力が少なすぎました。さらに、「二本松奪還」を仕掛けた旧幕府軍の内の一部隊が進軍中の新政府軍と遭遇し、敗走しました。そしてこの日、濃霧の中、新政府軍2200は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指しました。新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵、佐土原藩兵、大垣藩兵、大村藩兵を加えて6藩で編成されていました。母成峠の列藩同盟軍守備隊は、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と勝岩の台場、守将・田中源之進が率いる会津藩兵200でしたが、大鳥圭介が率いる「伝習隊」400や仙台藩兵100、二本松藩兵100、土方歳三が率いる「新選組」が加勢して総勢800となりました。戦いは午前9時頃から砲撃戦で始まりました。列藩同盟軍の指揮官は大鳥圭介で、兵力を縦深陣地に配備し、その配下の「伝習隊」が善戦しました。しかし、緒戦で木砲のみの第一台場(萩岡)が陥落し、大砲2門を置いた第二台場(中軍山)も新政府軍が山斤砲で攻撃し、さらに長州藩兵の側面攻撃により炎上しました。勝岩の台場を固めていた守備隊も土佐藩兵の攻撃を受け、追い詰められた列藩同盟軍は頂上に残った第三台場(勝軍山/母成峠)で大砲5門を以って反撃しましたが、新政府軍は第二台場から大砲20門で母成峠を攻撃しました。濃霧の中、間道から現れた新政府軍に背後を襲われた列藩同盟軍は大混乱に陥りました。敗色が濃くなると会津藩兵等は、大鳥圭介ら「伝習隊」を置き去りにして逃走しました。やがて峠は新政府軍が制圧し、午後4時過ぎには勝敗は決しました。殿となった「伝習隊」は大打撃を受け、大鳥圭介の総員退却命令も伝達されないまま潰走しました。母成峠を突破した新政府軍は猪苗代城へ向けて進撃しました。猪苗代城代・高橋権大夫は城と土津神社に火を放って若松へ撤退しました。

その次の次に、赤色ギャング事件:日本初の銀行強盗事件です。午後4時頃、東京市大森区にあった川崎第百銀行大森支店に拳銃を持った覆面男3人組が裏口から押し入り、床に向けて発砲しました。犯人グループは中にいた行員たちを応接室の前に並ばせ、その間に31700円を奪って裏口から出て行き、用意していた自動車で逃走しました。警視庁大森警察署は、ただちに緊急配備を敷きましたが、犯人検挙に至りませんでした。ちょうどその頃、牛込神楽坂警察署ではある博徒の取調べを行っていましたが、その際に「以前、別の暴力団員に拳銃で脅かされた」と供述し、その暴力団に関して捜査を行ったところ、拳銃の密売人がいる事をつき止め、その密売人を検挙しました。その密売人を追及したところ「以前サイトウという男に拳銃25丁を売り、今度も拳銃6丁と実弾600発を売る予定だった」と自白しました。警察はサイトウをギャング事件の関係者と推測し、待ち合わせ場所に張り込み、検挙に成功しました。サイトウは初めのうちは黙秘していましたが、彼の所持金の中に、強盗事件の発生した川崎第百銀行大森支店にあったはずの拾円紙幣「623701号」「623746号」が混ざっていた事が判明し、追及したところ自供に至りました。サイトウは日本共産党資金局員の“I”でギャング事件の主犯でした。彼の供述により、残る2名も検挙されました。これが、日本最初の銀行強盗事件となり、当時のアメリカ映画に登場する「ギャング」そのままの犯罪だったため、ギャング事件と呼ばれる事になりました。

最後に、千葉県松戸市役所(市長・松本清)が、市民の苦情にすぐ対応する「すぐやる課」を設置です。ドラッグストアチェーン日本最大手の「マツモトキヨシ」の創業者・松本清は、1909年に千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市)で生まれました。知合いの伝で丁稚奉公しながら薬の勉強を始めました。1932年に製薬王と呼ばれた星一(作家・星新一の実父)が設立した星製薬商業学校(現・星薬科大学)を卒業し、薬種商免許取得の後に「松本薬舗」を開業しました。1942年、千葉県東葛飾郡小金町議会議員になりました。1947年、千葉県会議員に当選しました。1954年に「有限会社マツモトキヨシ薬店」を設立し、商号を変更しました。1956年、千葉日報社社長に就任しました。そして、1969年に千葉県松戸市の第9代市長に当選しました。任期中は「無給勤務」で話題になりました。千葉県松戸市長在任中に「市役所は市民に役立つ所・市民にとって役に立つ人がいる所」をモットーに、日本初の即応部門「すぐやる課」を市役所に設置しました。これは、全国的に報道されました。課長の臼井銀次郎を含めて、課員は二名でした。従来の地方行政では、緊急に対応が求められる事態に対しても、何重もの決裁が必要とされてすぐには対応が出来ませんでした。そこで松本清はこの課を市長直属とする事で、機動性を確保しようとしました。部署名は“すぐ出来る事はすぐやる”から「すぐやる課」となりました。この思想は日本各地の市区町村長などに支持され、同名部署や同じ役割の部課が続々とでき、1975年には全国315の自治体で採用されました。なお、「すぐやる課」で対応出来ない件は担当部署に回付し、“可及的速やかに”処置する事になっています。また、コロムビアから「すぐやる課」を題材にしたレコード「すぐやる課」(歌:仲清史)も発売されました。市長在職時、県会議員選挙の投票率が低迷していたため、松本清は投票整理券の整理番号を用いてくじを実施しようと考えました。「公職選挙法」を管轄していた自治省にお伺いを立てましたが、却下されました。しかし、くじを実施しても投票の公正性が害される事がないと考えた松本清は、その案を実施しました。ただし、景品は1等賞が自転車と、それほど高額なものではありませんでした。松本清は、1973年5月21日、2期目の市長在職中に心不全で逝去しました。松戸市小金地区には「松本清記念会館」があります。敷地内に松本清の事績を記した石碑が建立されています。松戸市小金消防署前には松本清の胸像があります。松戸市小金地区には「小金きよしケ丘」、「小金清志町」と松本清にちなむ住居表示地名や、「清ヶ丘小金公園」が存在します。松本清の逝去後、松戸市は本人の功績を称えて記念フィルム(ニュース映画)を製作しました。

今日の誕生日:平田篤胤、芦川いづみ、西川ヘレン、松田美由紀、GAKU−MC(元EAST END)、西邑理香(姫乃樹リカ)、都啓一(SOPHIA)、リュ・シウォン、遠野舞子、伊調千春、堀北真希、稼農楓(元SUPER☆GiRLS)、増井みお(PASSPO☆)

今日の記念日:国際協力の日、役所改革の日、夢をかなえる日、トム・クルーズの日、天むすの日、ドローンの日

今日の「今日訓」:本日は、1954年に日本が初の援助国としての国際協力として、途上国への技術協力のための国際組織「コロンボプラン」に加盟した事で「国際協力の日」、1969年に千葉県松戸市役所が松本清市長の発案により、従来の縦割り行政では対応できないような仕事にすぐに対応する「すぐやる課」を設置した事により「役所改革の日」、10と6で「ドリーム」の語呂合わせで「夢をかなえる日」、「ト(10)ム(6)」の読む語呂合わせで「トム・クルーズの日」、「テン(10)む(6)す」の語呂合わせで「天むすの日」、「ド(10)ロ−(6)ン」の語呂合わせで「ドローンの日」となりました。
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