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2016年09月23日22:51

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もじたま日記・2163日目・茹でナシを食べた・・・湯 掻(ゆが)いてナシを食べた・・・

 2163日目
 ・・・「梨(なし)の実」を煮て食べた・・・庭の梨の木の枝が電線まで届くほどに伸びたので、梯子を木に掛けて登って切り落とした。梯子に一段一段と注意しながら大鋏を持って登ったが、その一段を登る度に上下左右、視る世界が変わっていく。梨の木の天辺から観る景色は猶更である。梨の木の枝、切られる理由は無いな、自然のママにしとけばイイとは思うのだが、電線に接触しては危険なのは云うまでもないが、ここは「人間のエゴが優先」しなくちゃぁ、ネッ・・・ココに来てから毎度のコトだが梨の実がボロボロと地面に落っこちて、ホトンドの中身が虫喰いで食べられない。しかも実自体が堅くて歯がたつシロモノではない。去年は皮を剥いて食べられるところだけを切り、ミキサーにかけてジュサーにしたのだが・・・折角の梨の実、今年も捨てるワケにはいかない。モッタイナイ・・・ジャガイモのように煮て食べてみるコトにした。
 煮た「梨の実」・・・柔らかくなって甘味があって美味しい・・・ついでにジャガイモと卵を茹で、ポテトサラダに混ぜて食べたが・・・マァマァの出来栄え・・・
 この梨は「みしらず・千両梨」であるらしい・・・ブログ検索で調べたら、
 「明治時代に中国から輸入された
  鴨梨(ヤーリー)
  や
  慈梨(ツーリー)などで北海道で広く栽培
  千両梨は明治時代に
  余市郡余市町山道村で発見された
  鴨梨(ヤーリー)の偶発実生で、
  別名が、
  身不知(みしらず)
  鴨梨を植えていたが違った実がなり、
  身元が分からず、誰も知らない実などの説・・・
  千両梨という名称は、鈴なりに実を付けた事から」、
 「身の程知らずなほどたくさんの実がなる事から
  名前がついた・・・
  北海道のいたるところで栽培され、
  安く出回っていたが、
  和梨が広まると共にその姿を消していった」
 らしい・・・
↓↑
 梨は「ナシ(和梨・日本梨・山梨)」
 「果肉は石細胞のペントザンやリグニンを含む=砂のようなシャリシャリした食感から Sand pear」・・・石の細胞です
 「漢方では高血圧、咽喉の炎症痛み、便秘解消、疲労回復」
 に効くらしい・・・
 「梨花一枝、春雨(はるあめ)を帯ぶ」・・・美人の涙です
 「梨園」・・・歌舞伎界です
 「梨尻柿頭」・・・アマイ部分です・・・利尻・理詞理?
          尻は尻尾(しっぽ)の尾張?
 「新井白石が酸味が強いことから
  中酸(なす・チュウサン)」
 が転じたとの説・・・色々な説として・・・
↓↑
 果肉が白いことから「中白(なかしろ)・色なし」
 風があると実らないため「風なし」
 「甘し(あまし)」
 「性白実(ねしろみ)」
 漢語の
 「梨子(らいし?・ライチ?)」
 が転じた・・・?・・・「Lychee」は別モノ
 「レイシ(茘枝)=ライチ」で楊貴妃が好んで食べた果物であるが・・・
↓↑
  梨(なし・リ)=利+木
 「無し」に通じることからこれを忌んで、家の庭に植えることを避け、「ありのみ(有りの実)」という呼称があるらしい・・・盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何も無し」、家の庭の鬼門(東北・北東)方角に「鬼門無し」として植えた
 「梨(なし)の礫(つぶて)」は返事無し、音沙汰無し・・・
↓↑
 「ルート(√)の割り算」・・・分母、分子に「分母の√数」を掛けて「分母・分子」の「無理数」を「有理化」する・・・?・・・「文母・文詞(分詞・文士)」を「和」をかけて、「有理化」する・・・
↓↑
 文士=writera literary man
    hack (writer)=三文文士
    scribbler=乱筆文士
    bachelor=大学四年卒で学士(Bachelor)
         大学院に進学
         卒業で修士(Master)
         博士(Doctor)
    bachelor=独身
 「bachelor=独身」はキッと、日本に渡来した「西洋人・宣教師・船乗り」だった・・・そして「独り神(古事記)」になった・・・
 「独神」だから、
 「ドイツ人=独逸人=German→プロシア(Prussia)
  プロイセン人=Preussen←オランダ人=Holland=阿蘭陀人」
 の「シーボルト」・・・「シーボルト(置維波斯徳利)」は「プロイセン人=普魯西(王国)人」・・・維新のハのシを置くは徳川の利?・・・「チイハシトクリ=知意葉施、訳句理」・・・?
 「維新の波斯(=ペルシャ)の徳利(とっくり)」・・・?・・・ペルシャとの関係・・・「波斯(ハシ)⇔斯波(シバ)」は織田信長の主人元の斯波氏・・・司馬史・・・?
 以下は
 「コトバンク」の
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88-75043
 の「原文」を参照、参考に、少々改作して添付・・・
↓↑         ↓↑
 「フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
  (Philipp Franz Balthasar von Siebold)
  (Philipp Franz Balthaster von Siebolt
   シーボルトと発音されているが、
   ジーボルトが正しい)・・・
  1796年2月17日〜1866年10月18日
  ↓↑         ↓↑
  丙辰(乙癸戊)     丙寅(己丙甲
  庚寅(己丙甲)     戊戌(辛丁戊)
  丙辰(乙癸戊)-子丑  丙寅(己丙甲 死没70歳
 ↓↑
  ドイツの医師・博物学者」
  ドイツ語での発音は
  「ズィーボルト」
  オランダ国王を動かし
  幕府に開国を勧める親書を起草
  親書は
  弘化一(1844)年に幕府に伝えられたが
  幕府はこれを拒否
  さらに
  日本が開国した際に
  ヨーロッパ諸国と結ぶべき条約の私案を起草し
  オランダ政府に伝え
  条約案は
  嘉永五(1852)年
  クルティウスに託されて幕府の手に届いた
  開国後
  クルティウスは
  シーボルトの追放の解除を幕府に要請
  安政五(1858)年
  日蘭修好条約の締結とともに実現
  安政六年
  シーボルトは再来日
  文久二(1862)年
  日本を去り
  ミュンヘンで死没
  通称『日本』もしくは『日本誌』
  すなわち
  『日本とその周辺諸地域
  (蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)についての記述集成』
  として
  ライデンで1832年〜54年までかかって刊行
  「日本動物誌(1833〜50)」
  「日本植物誌(1835〜70)」を著作
 ↓↑
 「伊藤圭介・・・?
  享和三年一月二十七日(1803年2月18日)
   〜
  明治三十四年(1901年1月20日)
  町医者の
  西山玄道の
  次男として
  名古屋(尾張)
  呉服町・・・・・・・・呉の服
  に生まれる
  理学博士
  男爵
  「雄しべ・雌しべ・花粉」
  という言葉を作った・・・
  尾張国名古屋
 (愛知県名古屋市)出身
  名は舜民・清民・・・・清の民?
  字は戴堯・圭介
  号は錦窠
  本草を
  水谷豊文、
  蘭学を
  藤林泰助、
  吉雄常三、
  野村立栄に学び
  1827年(文政十年)
  長崎で
  シーボルトより
  本草学を学ぶ
  1827年(文政十年)
  名古屋に帰る際に
  シーボルトより
  ツンベルクの
  『日本植物誌』を受け取り、翻訳し
  文政十二年(1829年)
  「泰西本草名疏」を刊行
  嘉永五年(1852年)
  尾張藩より
  種痘法取調・・・・・「種痘」=天然痘の予防接種である
             1796年
             英国人
             E.ジェンナー
             が初めてヒトに
             牛痘ウイルスを接種、免疫とした
  を命ぜられた
  文久元年(1861年)
  幕府の
  蕃書調所物産所出役に登用
  明治三年(1870年)
  名古屋から東京に移り住み、
  明治政府に仕えた
  明治十四年(1881年)
  東京大学教授
  明治二十一年(1888年)
  日本初の理学博士の
  学位(Bachelor)を受けた・・・・Bachelor
  名古屋の
  本草家の
  同好会
  嘗百社(シヨウヒヤクシャ)・・・試用比訳写・・・?
                  嘗(な)める百
                臥薪嘗胆
  の研究活動の中心人物」・・・
  ↓↑         ↓↑
  シーボルト(の長男)
  Siebold, Alexander Georg Gustav von
  1846年8月16日〜1911年1月23日
  ドイツ人外交官。
  P.F.シーボルトの長男
  安政六年(1859)再来日の父とともに長崎にくる
  文久二年
  駐日イギリス公使館の通訳官
  慶応三年幕府の遣欧使節一行に随行
  明治三年から日本政府の
  ベルリン駐在日本公使館書記官
  1866年
  パリ万国博覧会参加の
  徳川昭武一行に付いて訪欧
  一行の動静をイギリス外務省へ逐一内報
  明治三年
  民部省雇となり
  外債切り替え交渉のため
  特例弁務使
  上野景範に従ってロンドンへ出張
  明治六年
  太政官正院翻訳局に配属
  ウィーン万国博覧会副総裁
  佐野常民に随行
  明治八年
  大蔵省雇
  明治十一年
  外務省雇
  パリ万国博覧会副総裁
  松方正義に随行
  万博後在独公使館付
  明治十五年
  条約改正予議会
  明治十九〜二十年
  条約改正会議で東京で
  通訳官
  会議無期延期直後
  了解工作のため内命を受けて
  ヨーロッパ各国を歴訪
  以後はヨーロッパで
  新聞論調の本省への報告などに従事
  1894年
  日英条約改正交渉のため
  特命全権公使
  青木周蔵に付いてロンドンへ出張
  日清戦争、日露戦争の際は世論工作に従事
  1910年勲1等瑞宝章受章
  1911年1月23日死去。64歳
 ↓↑         ↓↑
  シーボルト(の次男)
  Siebold, Heinrich Philipp von
  1852〜1908
  シーボルトの次男
  明治二年(1869)
  兄、A.G.シーボルトにしたがい来日
  父の影響で東洋の文化と歴史に関心
  駐日イギリス公使館通訳官の
  兄アレキサンダーが一時帰国した際
  その秘書に日本語を学び
  1869年兄と一緒に日本へ
  明治五(1872)年1月
  日本代表部の臨時通訳練習生
  十月
  ウィーン万国博覧会の日本万博委員会の連絡係
  明治六年一月
  博覧会への陳列品と共にウィーンに行き
  三月
  名誉通訳官に昇任
  明治六年六月
  再来日
  明治十六年二月
  領事館官房書記官
  後、
  代理公使
  横浜代理領事
  1等官房書記官
  上海総領事代理などを歴任
  同二十九年七月十日離日
  「日本考古学覚書(1879)」
  「アイヌ民族研究(1881)」
  を書き、
  「考古説略」を著作
  ・・・1908年8月11日死去・56歳
 シーボルトと、その「長男・次男」、特に「次男」の履歴、業績の重なりだろう・・・
 ・・・「現存・古事記」・・・?
ーーーーー
 ・・・モウソウはツキナイけれど・・・茹でナシを食べた・・・湯 掻(ゆが)いてナシを食べた・・・
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