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2016年09月10日23:17

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ドゥーチュィムニー「秋山昌広・元防衛事務次官が語る 普天間代替施設膨張の“謎”」

 「ヘリポート」が「新基地」へ──。国と沖縄県の裁判闘争が再燃している米軍普天間飛行場の辺野古移設問題。返還交渉の当事者だった元防衛事務次官が核心を明かす。

 1995年に起きた米兵による少女暴行事件で噴出した沖縄の憤りを鎮めるため、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使は96年4月、普天間飛行場の返還合意を電撃的に発表した。

──日米が普天間返還に合意した際、普天間の機能は米本土や岩国(山口県)への分散と、沖縄の既存の基地内にヘリポートなどを追加的に整備することで維持するとされていました。現在の辺野古への新基地建設(※注1)とはおよそ異なるものです。

秋山昌広(以下、秋山):返還合意発表後、米軍の在沖縄基地内への移転ということだったので、一生懸命に場所探しを始めました。ヘリポートとはいえ軍のヘリは滑空して飛ぶので、ある程度の滑走路は必要になります。日本側から提案した案の一つは、700〜800メートルの滑走路でした。沖縄の既存米軍施設である嘉手納基地のほか、嘉手納弾薬庫近くやキャンプ・シュワブ内では700メートルぐらいのヘリポートなら収まるだろうと考えました。

──防衛庁(当時)を中心に日本側でそのような検討を進めていた最中の96年9月、突然海上基地という案が浮上します。秋山さん(当時防衛局長)ら防衛庁や外務省にとっても唐突でしたが、橋本首相はこれに乗りますね。

秋山:嘉手納基地への統合に全精力を注いでいたところに、ポンと海上施設という話が飛び込んできて、それまでの作業がいっぺんにひっくり返りました。海上施設が急に出てきた背景はよく分かりません。これに呼応する形で、日米の造船業界や海洋土木業者が活発に動き始め、実際に色々な案を防衛庁の私のところにも持ち込んできました。橋本さんがなぜこれに関心を持ったかは知りません。

──橋本首相にとって普天間返還合意は、県内での代替施設確保について、地元の理解と協力を得られるか不透明な「賭け」でした。返還を当時の大田昌秀知事に伝える際も、突然電話で合意を告げ、勢いで協力を取り付けようと試みました。撤去可能な海上施設は、沖縄に基地を新設せずに本来の意味での「返還」にこぎ着ける妙手に見えたのではないでしょうか。当初のヘリポートについても、「撤去可能」にこだわっていたようですが。

秋山:確かに、橋本首相は普天間の代替施設について、口癖のように「撤去可能、撤去可能」とおっしゃっていました。

●60年代に青写真?

 普天間代替施設は96年12月のSACO(日米特別行動委員会)最終報告で、「海上施設」とすることが明記され、全長1500メートル(滑走路1300メートル)の施設を、「沖縄本島の東海岸沖に建設」することが盛り込まれた。

──海上施設はその後、埋め立てによって造ることになりますが、米側には60年代に辺野古を大規模に埋め立て、普天間の機能に港湾設備も備えた新基地を建設する計画(※注2)があったことが知られています。

秋山:いつだったか忘れましたが、SACO最終報告に基づき、普天間飛行場の返還に伴う代替施設に関する日米共同の作業班である「FIG」(普天間実施委員会)の場で、米側が60年代の計画を「これでどうだ」と非公式に提示してきたことがあります。「こんなもの持ち込んできましたよ」と報告する部下に、私は「こりゃ駄目だ」と言って、はねつけました。

──秋山さんは米側が「およそ現実的でない案を持ち込んできて、実際の検討が進まない状況が続いた」と回顧(秋山氏著『日米の戦略対話が始まった』亜紀書房、2002年)しておられますが、結果としてそれと近いものが「現行案」になりました。

秋山:結果論ですが、あとから振り返ってみると、やっぱり海兵隊はかなり大きな空港を造りたいという希望は持っていたんだと思いますね。埋め立ては、沖縄側から出た案だと思いますが。

──順番から言うと、普天間飛行場返還がきっかけになって、もともと海兵隊が考えていた青写真が出てきたということでしょうか。

秋山:普天間飛行場返還に伴う代替施設は、96年4月のSACO中間報告では沖縄の既存の米軍基地内に、ということでした。それが最終報告で海上施設になった。

 海兵隊は60年代の計画を実現させるチャンスと捉えて、埋め立ても含め十分大きな施設に持ち込みたいと考えたのではないでしょうか。そもそも米政府は、海兵隊の了解を十分に取り付けないまま、橋本首相との返還合意に踏み切ったように見えます。

●「領海外」を模索

 09年9月、普天間の移設先について「最低でも県外」を掲げる鳩山政権が発足。秋山氏は10年に普天間の代替施設として、沖縄近海の領海外に浮体式の海上施設を設置する打開策を提起したという。

──鳩山政権下の10年に打開策を提起し、米側への説得に乗り出したそうですが。

秋山:私はすでに退官していましたが、ときの首相が「最低でも県外」と言っている。普天間問題にかかわってきた元官僚として、どうしたらいいのかと考えをめぐらし、沖縄近海の領海外なら「最低でも県外」をかろうじて満たせると思ったのです。領海外なら知事の権限である「公有水面」の埋め立ても適用外で、法手続き面では「知事の合意」も必要ありません。頭に描いていたのは半潜水型という、沖縄海洋博跡地にあったアクアポリス(※注3)のようなものでした。

 日本国内で動いてもつぶされると思いましたので、まず米国に持ち込みました。クリントン政権で国防次官補を務めたジョセフ・ナイは非常に興味を持ち、当時オバマ政権で国務次官補を務めていたカート・キャンベルにナイがすぐさま電話しました。キャンベルは浮体式の脆弱性に難色を示したようでした。

 ワシントンでは、政権に影響力のある米外交問題評議会上級研究員のシーラ・スミスに話しました。しかし政府内にサーキュレートされ、海兵隊に知られたからだと思うのですが、あっという間につぶされました。

●20年間を振り返って

──返還合意後の20年をどうご覧になりますか。

秋山:やはり沖縄の人たち、あるいは沖縄の政治家にとって、県内に代替施設を造るというのは基本的には反対なわけですよね。民主政治の下で政治家も反対しないと当選しないというのは、やはり沖縄の人たちが基本的には反対だということだと思います。

──東京からは「受け入れ賛成」と見えた沖縄の政治家も、「期限付き」など常に条件をつけていました。

秋山:中央政府のほうがそこを重視しなかったきらいがあります。98年に就任した稲嶺恵一知事が受け入れ条件に掲げた「使用期限15年」の問題など、米国政府のことを考えれば、とても受けないだろうというのが東京の反応。僕自身もそうでした。ただ、それが地元のリーダーの付けた条件だったら、もっと重く考えないといけなかったのではと思います。結局、政府内では「米国を説得するのはとても難しい」という声が勝ってしまった。普天間が今のままという状態は、米側は望んでいないと思います。次にまた航空機事故でもあれば、絶対に沖縄にいられなくなるという危機感はあるはずです。

 普天間から動きたいという意思はある。しかし一方で辺野古は行き詰まっている。ここまでくると、政府は現行案を引っ込めるわけにはいかないでしょうし、沖縄は絶対反対ということになる。何か知恵が必要になるかもしれません。

(構成/編集部・渡辺豪)


※注1
2006年5月の「再編実施のための日米のロードマップ」で、V字形の滑走路2本からなる全長1800メートルの案で日米が合意。米軍の強襲揚陸艦が接岸できる港湾施設も付帯する。

※注2
キャンプ・シュワブ沖の米軍の海上基地構想を描いた「海軍施設マスタープラン」は、米海軍から調査を委託された米調査会社が66年に作成。埋め立て式の滑走路や大型港湾施設などを建設する大規模な海上基地構想で、核兵器の海上輸送も視野に、前方展開強化のための青写真が描かれている。

※注3
沖縄の日本復帰を記念して開かれた沖縄国際海洋博覧会(75〜76年)のシンボルとして、日本政府が出展した「半潜水型浮遊式海洋構造物」。未来の海上都市をイメージして建造された。老朽化に伴い、2000年10月に撤去、解体された。

※AERA 2016年9月5日号
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