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2016年09月10日01:08

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【放言妄語】 演出の一般論による評価

アベマリオという企画、その発想の是非については、いわゆる【宗教論争】になるので、今は棚上げして、
では、純粋に出し物として見てコレを見た場合、どう評価されるべきか。

やっぱりダメ。
演出の意図を表現しきる上で、大きな失敗を犯している。

なぜ、こう言いきるのか、そこに根拠はあるのか。
その根拠を示す。

そのまえに、まず、
この、リオの閉会式の演出について、なにが肝なのか、その意図を、分析・解釈し、ソレを明示したい。

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リオから遠く離れた地球の裏側。トーキョー。

そのトーキョーから、ドラえもんに助けてもらって、地球を突き抜けてリオにやってきた!

その現れた場所は・・・この、リオの閉会式会場だぁぁぁぁぁあ!

すげぇ、マリオだ!ナマのマリオだ!マリオがニッポンからリオに来たよ!

って、あれ、その正体は・・・って、ええええええええええ!?

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ここで、いったん、確認を取りたい。

ワタシは、この演出を、このように理解している。

この認識について、違う理解をしているか?

まず、誰もが、この認識であるだろう。

その前提で、話を次に進める。

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この演出のキモは、
「生のマリオが出てきた」
「そして、その正体は、なんと、意外な、あの人物」
というサプライズにある。

そのサプライズについて、一般論、本質論でいうならば
正体は、世界に知られた日本人で、かつ、意外性がある人物であることが、条件だ。

なおかつ、演出の意図を理解し、ソレをきちんと演じられる人物が望ましい。

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ここで、いったん、確認を取りたい。

ワタシは、この演出を、このように理解している。

この認識について、違う理解をしているか?

まず、誰もが、この認識であるだろう。

その前提で、話を次に進める。

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この演出自体は、好みや賛否もあるだろうが、アトラクションなりエキシビジョンなり、アミューズメントとしては、決してひどいものではない。

むしろ、ゴラクとしては、王道である、そう、純然たるゴラクとしてみれば。

(ただし、オリンピックの引継ぎでもある、いわば厳粛さも、ゴラクとともに兼ね備えたい、という議論もとうぜんあるのだが、
それについては、今のところは棚上げしてあげて、ひとまず、一つのゴラクとして評価することとする)


では、このサプライズは、どのようにして効果的に印象付けられるか。

それは、
【マリオ】のインパクトにかかっている。

「ナマのマリオ、リアル・マリオがでてきた!」
コレは、もう、凄いインパクトである。

そして、その、マリオの衝撃があってからの、
「実は、その正体は・・・」
という、次のサプライズが炸裂する。

いわば、このサプライズは、二段仕掛けなのだ。

だから、最初に出てくるのは、「マリオ」本人でなくてはならない。

マリオがでてきた!と強く印象付けること、ソレが大事だ。

だから、マリオ役は、すっかり出てきてマリオをしっかり認識させなければならない。

閉会式会場の土管から出てきた時は、その人は「マリオでなくてはならない」。

まず、最初にマリオで驚かせてから、扮装を外さなくては、マリオを演出に使う意味がない。

それでこそ、
「その正体は・・・・げぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
という、サプライズが成立するのだ。

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しかるに、リオの閉会式を繰り返し、何回、見直しても、
ステージのドカンのせり上がりから姿が現れだした頃には、次々とマリオの紛争を脱ぎ捨てていき、
せり上がりが終わる頃にはもう、帽子を除いて、すっかり扮装を解いている。

コレは、早すぎる。

何のためにマリオででてきたのか!
マリオの扮装をして出てこよう、という事になったのか。

その演出の意図に対して、扮装を外すタイミングが、あまりにも早過ぎる。

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役者がヘボなのか、それとも演出がヘボなのか。

少なくとも、企画段階では、マリオというキャラクターを起用している意図は、私の解釈と分析とほぼ一致しているはずだ。

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ここで異論があるなら、
「じゃあ、なんでマリオ、というか、架空のキャラクターを使う必要があるんだよ、あんな演出をする必要があるんだよ」という疑問に対して答えがあるはずだ。
その答え、が、反論であり、異論である。
その答えのない異論や反論は存在しない、ソレはただの反発だ。

ここでは、異論がある可能性は、ひとまず認識しておき、
そのうえで、
ワタシがこの演出の意図をこのように分析した、という、その内容に基づいて、話を進める。

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肝心なのは、何度も繰り返すが、
観衆に、「マリオ」を見せ付けることだ。

マリオが出てきたという事実に基づく「マリオの世界」、コレに観客をいったん、すっかり引っ張り込んでしまうことだ。

だから、
すっかり姿を現すまでは、マリオの扮装を解いてはいけない、一切外してはいけない、そうでなくては、演出の本来のサプライズが崩壊する。

主役は、あくまでマリオなのだ。
その主役を印象付けた後で、主役の正体のネタ晴らしというサプライズが成立する。

だから、
せり上がりの途中で扮装を解いてはいけない、そのタイミングで扮装を解くのは早すぎる、間違っている、
と断じることができる、
と、そういう解釈が成立するのだ。


では、なぜそんなことになったのか。

ソレは、おそらく、演出家の意図では無いだろう。
なぜなら、演出家の意図は、演出家自身が忘れるはずはなく、(少なくとも、大人の事情などの理由がない限りは)演出家がソレにそむくはずもない。

したがって、何らかのやむをえない事情がない限り、演者に対して、実際に本番で行われたようなタイミングで扮装を解くように指導した、とは考えられない。
そんなことをしたら、演出に対して大きな自己矛盾が生じる。

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では、演出指導の問題でないならば、なぜか、と推理を次の順序へ進めると、
・・・
演者が、意図的に、あるいは誤って、扮装を解くタイミングが早くなった、ということだ。

まぁ、意図的か、事故なのか、ソレはもはやわからないが。

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ひとつ、たしかにいえることは、
あの演出の主役は、「マリオ、というバーチャルな世界の住人」だということだ。

その、主役マリオ、という効果を引き出すには、やはり、あのタイミングは、早すぎる。




■「安倍マリオ」起用の舞台裏、スーパーバイザーが明かす
(朝日新聞デジタル - 09月09日 21:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4185898



 リオデジャネイロ五輪の閉会式で、リオから東京に五輪旗を引き継ぐセレモニーの企画演出を務めた佐々木宏クリエーティブ・スーパーバイザーが9日、スーパーマリオ役に安倍晋三首相をサプライズ起用した舞台裏を明かした。

 佐々木氏は当初、ロンドンやリオ五輪への引き継ぎ式に出演したサッカーのベッカム氏やペレ氏のように日本の著名なアスリートを起用する方針だった。しかし、「現役選手は難しく、引退した有名選手も日程が合わなかった。選手以外でマリオに似ている人はいないかも探した」。

 機材などの納品を終えた本番3週間ほど前に、2020年東京大会組織委員会の森喜朗会長から「安倍首相はどうか」と提案を受けた。佐々木氏は「我々としてあり得ないアイデア」と驚いたが「安倍総理というよりマリオとしてやって頂けるならチャーミングですてきなことになるんじゃないか、と受け入れた」という。

 首相を起用したことに批判的な声がある点については「色々な意見が出てしかるべしと思う。評価して頂いて、ほっと一息というのが正直なところ」とした。

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