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2016年09月02日03:50

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2145日目からのツヅキ・・・舒(ほっと一息)の明(あかるさ)・・・

 前頁からの続き・・・
 ↓↑
ーーーーー
 581年
 隋帝国
 北周(北朝)の外戚
 楊堅(文帝)が建国
 589年
 南朝の
 陳を滅ぼして中国統一
 618年
 隋滅亡
 長安=西安市
 長安(前漢・北周・隋・唐)の首都
 西都=大興=中京=鎬京とも呼ばれた
 洛陽=洛邑=雒陽=神都
 宋代以降は
 開封
 645年
 大化の改新
 663年(天智二年)八月
 白村江(錦江河口付近)の戦い
 ↓↑
 渤海
 7世紀末
 中国東北部を中心に建国
 ツングース系族の国
 シベリア南部に
 ツングース系
 靺鞨族の
 大祚栄が建国
 契丹(モンゴル系)、
 靺鞨(ツングース系)で高句麗と同系
 契丹は唐の太宗に服属
 高句麗遠征に協力
 靺鞨は
 668年
 高句麗が
 唐に滅亡させられ後
 大祚栄が
 高句麗を復興・・・672年7月24日〜8月21日
          壬申の乱
          天武天皇元年6月24日〜7月23日
              
 696年に遼東地方に
 震国を建国
 713年
 唐から
 渤海国王に冊封
 渤海の支配領域
 北は黒竜江に接し、
 シベリア、沿海州南部、
 中国の東北地方(満州)の東半分
 鴨緑江の南の平壌を中心とした朝鮮北部
 ↓↑
 大祚栄は、唐から冊封され、
 その文化と律令制度を取り入れ、
 新羅と対抗
 727年
 日本に渤海使を派遣来航
 日本からも遣渤海使が派遣し、
 絹などを輸出
 渤海の都
 上京竜泉府(東京城)、
 その故地からは
 和同開珎などが出土
 仏教文化が栄えてた
 渤海の
 第3代王、
 文王-大欽茂(在位737〜794)
 755年頃
 都、上京竜泉府を造営
 唐へ29回、
 日本へ10回の使いを送る
 和同開珎は
 758年の
 小野朝臣田守の贈り物の一部・・・
 唐の大暦年間(766〜779年)
 「日本舞女」十一名が
 渤海から唐朝に献じられた(新唐書・渤海伝)
 渤海
 武王、文王と三代にわたって安定
 926年
 耶律阿保機の率いる
 契丹に滅ぼされた
 契丹はこの地に東丹国を置き、直接統治
 唐の滅亡(907年)
 五代十国の争乱
 新羅が滅亡
 936年
 高麗が成立
 973年
 雲南で大理が成立
 ベトナムでは
 939年
 呉権が中国から自立
 937年
 契丹が遼と改称
 日本では
 935〜941年
 承平・天慶の乱
 平将門・・・・下総国豊田を本拠
        平王
        周朝の第13代王
        平王の時代より周は
        東周
        子は洩父、狐、烈
        宜臼は
        幽王の太子であったが
        褒姒が寵愛を受け、
        伯服を儲けると、
        廃太子され、
        「申」へ逃れた
        廃后された
        「申后」の父である
        申侯はこれに怒り、
        幽王が悪戯で烽火を用い諸侯を集め、
        諸侯の信頼を失っていた機に乗じ、
        西方の
        犬戎と協力して幽王を攻撃
        前771年
        幽王と伯服は
        驪山において殺害
        褒姒も犬戎により連れ去られ
        西周は滅亡
        宜臼は外祖父の申侯、虵侯、
        許の文公、
        従父の鄭の
        武公などの諸侯によって、
        申にて即位
        都城である鎬京は荒廃し
        紀元前770年
        洛邑(洛陽)に遷都
        東周が始まった
        鎬京には兄弟である
        携王一派が存在
        前759年
        これを倒し、
        東西分裂していた周を統一
        平王
        51年の在位の後に崩御
        太子
        洩父は夭折
        太子の子である
        林が
        王太孫となり、
        祖父の後を継いで王位を継承(桓王)
    ・・・「平将門」には関係ないか・・・?、では、
        平 清盛
        永久六年一月十八日(1118年2月10日)
          〜
        治承五年閏二月四日(1181年3月20日)
        別名は
        平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
        戒名は
        浄海
        保元の乱
        後白河天皇の信頼を得
        平治の乱
        武士による太政大臣
        日宋貿易によって財政基盤を固め
        宋銭を日本国内で流通させ
        武家政権を打ち立てた(平氏政権)
        平氏の権勢に反発した
        後白河法皇と対立
        治承三年の政変で
        法皇を幽閉して
        徳子の産んだ
        安徳天皇を擁し政治の実権を握る
        源氏による平氏打倒の兵が挙がる中
        熱病で没した・・・
     ・・・桓武平には関係であるカナ・・・
        家紋は揚羽蝶、鱗(うろこ・リン)
        平=たいら=平良=タイラ=碓(臼)だが
        「替等」である・・・?
        桓武平氏の中でも
        伊勢平氏が属する武家の
        高望王流・・・葛原親王(桓武天皇の第三皇子
         ↓↑      官位は一品・大宰帥
         ↓↑      桓武平氏の祖
         ↓↑      妻は
         ↓↑      金寧橋橋姫=新羅景文王の娘
         ↓↑              (次女)
         ↓↑    の
         ↓↑    第三王子高見王の子
         ↓↑    ↓↑
         ↓↑    高望王
               寛平元年(889年)5月13日
               宇多天皇により
               平朝臣を賜与され臣籍降下
               昌泰元年(898年)
               上総介に任じられ
               長男、国香、次男、良兼、
               三男、良将
               を伴って任地に赴任
         ↓↑    親子は任期が過ぎても帰京せず
               国香は前常陸大掾の源護の娘
               良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘
               を妻とし
               在地勢力との関係を深め
               常陸国・下総国・上総国を開発
               勢力を拡大、その権利を守るべく
               武士団を形成し
               高望王流桓武平氏の基盤を固めた
               延喜二年(902年)
               西海道の国司となり大宰府に居住
               延喜十一年(911年)
               同地で死没
               延喜三年(903年)
               昌泰の変
         ↓↑    により失脚した
         ↓↑    菅原道真も同地で薨去
        ではなく
        京の都で
        文官として活躍していた
        高棟王流の人々を指していた・・・文官です
        高望王流坂東平氏、
        常陸平氏や伊勢平氏がこれに相当・・・新羅系和人?
 ↓↑
 藤原純友・・・瀬戸内海、伊予国日振島を根拠
 ↓↑     天慶三年(940年)1月16日
        小野好古を山陽道追捕使
        源経基を次官
        2月5日
        純友は淡路国の兵器庫を襲撃
        2月25日
        将門討滅の報告
        純友は日振島に船を返した
        6月
        大宰府から解状
        高麗から牒が届けられ、
        7月
        左大臣藤原仲平が
        呉越に対して使者を派遣・・・?
        5月
        将門討伐に向かった東征軍が帰京
        6月
        藤原文元を
        藤原子高襲撃犯と断定、追討令
        文元を引き渡して朝廷に従うか、
        朝敵として討伐されるか・・・
        8月
        純友は400艘で出撃
        伊予国、讃岐国を襲って放火
        備前国、備後国の兵船100余艘を焼く
        長門国を襲撃
        10月
        大宰府と追捕使の兵が、
        純友軍に敗北
        11月
        周防国の
        鋳銭司を襲う
        12月
        土佐国幡多郡を襲撃
        天慶四年(941年)2月
        純友軍の
        藤原恒利が朝廷軍に降り
        朝廷軍は純友の本拠
        日振島を攻め、破った
        純友軍は西に逃れ、
        大宰府を攻撃して占領
        純友の弟の
        藤原純乗は、柳川に侵攻するも
        大宰権帥
        橘公頼の軍に蒲池で敗退
        5月
        小野好古率いる官軍が九州に到着
        好古は陸路から、
        大蔵春実は海路から攻撃
        純友は大宰府を焼いて
        博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った
        純友軍は大敗し、800余艘が官軍に奪われる
        純友は小舟に乗って伊予に逃れた
        6月
        純友は伊予に潜伏
        警固使
        橘遠保に捕らえられ、獄中で死亡
        ↓↑
        呉越(907年〜978年)
        中国・五代十国時代に
        杭州を中心に
 ↓↑     浙江省
 ↓↑     江蘇省の一部を支配した国
 の乱
 925年
 渤海滅亡
 渤海の残党が
 930年
 日本に使者を派遣、
 援軍要請を
 日本は拒否・・・
 ↓↑
ーーーーー
 齊-永元元年(499年)・・・・臍(𦜝・へそ)=毘
   其國 有沙門 慧深
   來 至 荊州,說云
   扶桑の東1000余里(430km)に
   「女国」あり
   (「梁書・巻五十四・列伝第四十八
     諸夷 海南 東夷 西北諸戎
     扶桑國
   ↓↑
 「駆=驅=駈」=「かける・かる・ク」
  は、男が女にイイよって女の門前に
  小屋を建ても気に喰わなかったら
  拒否する、追い払う「意味」であった・・・
   ↓↑
  駆=馬+匚+乂
    驅=馬+匚+品(口口口)
      駈=馬+丘
       馬などを走らせる
       駆使・駆動・疾駆
       先駆・前駆・馳駆 (チク)
       長駆
       追い払う
       駆除・駆逐
       (馬を)速く走らせる
       急がせる
       疾駆
       速く走る
       長駆
       追い払う
       駆逐
       迫る
       強いる(強制する)
       焦る
       昂ぶる
       攻め込む
       騎馬で駆ける
       軍隊の列
       物事を行う
       先駆・前駆
       (力を加えて)動かす
       駆動、駆使
       おう=追う
         ↓↑
       はせる=馳せる・・・雄略天皇
                (允恭天皇七年十二月
                  〜
                 雄略天皇二十三年八月七日)
                 第21代天皇
                (在位、
                 安康天皇三年十一月十三日
                  〜
                 雄略天皇二十三年八月七日)
           大泊瀬幼武尊
          (おおはつせわかたけるのみこと)
           大長谷若建命
           大長谷王(古事記)
           大悪天皇、有徳天皇・・・とも?
           彼を拒否したのは
          「若日下王」であった・・・
          しかもハナシは
          「草香幡梭姫皇女
          (くさかのはたびひめのひめみこ
           仁徳天皇の皇女)」である・・・
          志貴県主の館が鰹木を上げて
          皇居に似ていると何癖をつけ、
          布を掛けた白犬を手に入れ
          婚礼のミヤゲ物にした・・・
           『日本霊異記』によれば、
           「磐余宮(いわれのみや)」にもいた・・・
          「少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
           小子部栖軽」とも記し
           少子部連むらじの祖先
           雄略天皇が養蚕振興のため
           蚕こを集めるよう命じたところ
           誤解し
           嬰児(エイジ)を集め
           その養育を命ぜられ
           少子部連の姓を賜った」との
          「こがいこ」の誤解のハナシも・・・
          呉国(宋)から
          漢織(あやはとり)
          呉織(くれはとり)らを招き、
          秦民(秦氏の民)の統率を強化
          養蚕業を奨励
          雄略天皇が后と婚合している寝所へ、
          小子部栖軽が入ってき
          天皇は照れ隠しに、雷がなったので
          栖軽に
          「雷神を捕らえることができるか」
          と命じ
          栖軽は豊浦寺と飯岡の間にある丘に
          いた「雷神=大蛇」を輿に乗せ
          天皇に献上したが
          天皇は光り輝く雷神に恐れをなして
          「もとのいた所へもどせ」とお命じた
          小子部栖軽が亡くなると
          天皇は彼の忠義を讃え、
          七日七夜祭られた後この丘に
          お墓と
          墓標(取雷栖軽之墓)を建てた
          これに腹を立てた
          雷神が栖軽の墓標を踏み潰すが、
          その割れ目に足か挟まり、
          再び捕らわれたが
          雷神を解き放たれ
          「生之死之捕雷栖軽之墓」
          と記した墓標を建て直した
          この雷神が落ちていた所を
          雷岡(雷丘)と呼ぶようになった・・・
          これって、ギリシャ神話・・・?
          万葉集に
          「大君(おほきみ)は
           神にしませば 天雲の
           雷(いかづち)の上に
           廬(いほ)りせるかも」
           柿本人麻呂の歌がある・・・?
           ↓↑
          479年4月
          百済の
          三斤王が亡くなると、
          入質の
          昆支王の次子
          未多王に
          筑紫の兵500をつけて帰国させ、
          東城王として即位させた
          兵を率いた
          安致臣・馬飼臣らは
          水軍を率いて高句麗を討った・・・
  ↓↑
 「梁書」の「不制 縗絰(サイテツ)」は
       喪服の制度はないであるが・・・
「リョウショ」・・・「寮所・良書・両書・両所」の制度はない?
  ↓↑ 
 「縗絰」=印绶・麻衣の喪服=サイテツ
      雨衣(みの=蓑)
      縗=糸+亠+𧘇+一+𧘇
        弁絰服
        衰は胸の前に着ける麻
      絰=糸+至(一ム十一)
        大帶・革帶・弁絰服
        絰は首と腰につける麻
        齊衰之絰、斬衰之帶也
ーーーーー
 ・・・629年・・・???・・・
 「梁書」自体が「?」である・・・「梁(502年から557年)の歴史を記した

歴史書。56巻。629年(貞観三年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の

姚思廉が成立させた」・・・「陳(ならべる)の姚(女の兆し)の察」、「姚

の思いは廉」・・・
 「廉=かど・レン=广+兼=特に取り上げるべき事項・箇所・ある事柄の原

因・理由となる点・一つ一つの境め・物事のけじめ・折りめ・善悪のけじめが

たっているさま・欲につられてけじめを失わないさま・けじめをたてて暴利を

おさえたさま・欲ばらないさま」、「行政を監察してけじめをつける役目。元

代の粛政廉訪司の長官」・・・「廉頗(レンパ)、藺相如(リンショウジョ)

」の「刎頸の交わり」・・・
 「廉=广+兼」=かど・いさぎよい・やすい・レン」、
 「私欲がなく、けじめが、ついている
  廉潔・廉直・孝廉・清廉・破廉恥」
 「不審の廉(かど)がある」
 「反則の廉(かど)で罰せられる」
 「廉価・廉売・低廉」 、
 「名のり=おさ・きよ・きよし・すが・すなお・ただし・やす・ゆき」
 ・・・「すだれ=簾」に類字・・・「簾垂の政治=垂簾聴政(スイレンチョ

ウセイ)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治

を行うこと。中国で、女性である皇太后は、朝臣と直接対面するのを避けるた

め、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座っていた」・・・「水練調

整」・・・?
  ↓↑
 推古天皇
 在位36年3月7日(628年4月15日)崩御
  ↓↑
 629年2月2日(舒明天皇元年1月4日)
 田村皇子が即位し、
 舒明天皇即位・・・
  ↓↑
 舒=舎+予(預かる)
  (のべる・ショ・ジョ
   緩やかである・ゆったりしている・のんびりしている
   一息つく・ホットする
   伸ばす・伸びる・広げる・広がる・伸びやかにする)
       「舒伯特 Shūbótè=シューベルト=歌曲の王
               「潜水者・糸を紡ぐグレートヒェン
                鱒(ます)・双子の兄弟
                死と乙女・未完成交響曲
                秋・侏儒(小人)
                岩に岩が重なるところ」
        舒 曼 Shūmàn=シューマン
               「漁師・憧れ・蝶々
                女の愛と生涯」
                クララと結婚ですか・・・
 の
 明=あきらかにする・・・楽曲は?
  ↓↑
 玄奘の天竺(インド)へ旅行(〜645年、「大唐西域記」)
 ・・・時代は「蘇我蝦夷」である・・・「我、ヨミガエル(読みかえる?)、蝦夷(えぞ・カイ)」である・・・
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