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2016年09月02日03:44

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もじたま日記・2145日目・ダレが己自身を産んでくれたのか・・・母親である・・・

 2145日目
 ・・・9月1日木曜日・・・平穏無事な日は、そう、長くは続かない・・・「子供の貧困」、そして「戸籍の無い子供」達・・・
 漢字に於ける部首としての「偏・旁」の「魚」や「鳥」は「一般名詞」で、この「魚+α」や「鳥+α」の「α(アルファー)」が、「魚」と「鳥」の「特殊性、個別性」としての分類、区別の形象意味である。スベテとは云わないが原則的には、ソウである。他の「動植物」である「イ(人)」、「犭(獣)」や、「草(艸)」、「木」、その他の「火(灬)・土・金・水(氵)」、「山・川・雨」などの「偏旁」も「α(アルファー)」によって、漢字の意味は、特殊、個別的に「変貌」する。
 更に云えば、漢字中国の「姓名」の「姓」が「女+生」であるコトは漢字の合理性を示すモノである。男女間に生まれてくる「子供」は女性が確実に陣痛を伴って生み出す「分身」である。そして、生まれてきた子供の「姓」は、母方の一族の「姓」である。
 ダレが子供としての己自身を産んでくれたのか・・・母親である・・・
 「偏旁」で「変貌」する「女偏旁」の漢字をブログ辞典で調べれば随分とある・・・以下の漢字の音訓でドレだけ読めるか、その意味はと訊かれたら・・・「女+α」の「α」の部分からナントなくイメージが出来そうである・・・
 奴奸好妁如妃妓妍妊妣妨妙妖
 姑姉始姐姓妲妬姆妹娃姨姻姶
 姪姙姥姚娥姫娟娯娘娠娜娚娉
 娩婀婬婉婚娵娼婢婦媛婿媒媚
 媼嫁嫌媾嫉嫋嫂媽嫗嫣嫦嫡嫩
 嫖嫺嫻嬉嬌嬋嬢嬶嬬嬪嬾孃孅
 孀
 で、
 「扶桑國」に出てくる「女國」だが、ギリシャ神話では「アマゾネス」である・・・「アマゾネスの国」と云っても「男」が居ないワケではなかった。「男」は異国、他国から誘拐、拉致されてきたのである・・・「種付け」だけではなく、「労働力」としても使用されたであろう・・・
 「扶桑國」では「北獄の犯罪者同士から生まれた子供」の宿命は「奴婢」とはなったが、「獄外奴隷」として生活は出来たらしいが「奴婢」の「生命保障」があったとは思われない・・・
 「女真(女眞)=女直」と記録されているが・・・ナゼ、漢字の部首構成で「女+真=女+眞=女+直」は無いんだろう?・・・これらの漢字を作るコトを拒否したのか・・・「康煕帝」・・・?
 康熙帝は世祖(順治帝)の第三子
 第四(肆)代皇帝=聖帝(1654〜1722)で在位「61」年
 彼が「張王書」等に作らせた
 「康熙字典(42巻・康熙五十五年・1716)」
 「康熙帝」の康熙四十八年(1709)
 耶蘇会士が命令を受けて
 黒竜江沿岸を実測、
 樺太に渡航、その北部を測量し、
 北緯50度近くまで踏査し、中国地図上に描いた
 「樺太(からふと)」は
 日本人が
 「唐人(からひと)」を訛ったモノらしい(?)・・・
ーーーーー
           古語辞典の説明
            ↓
 1・真人(まひと・まっと・まうと)
        ・・・皇族に与えられた
        ・・・中国北方には「女・真人」が存在した
 2・朝臣(あそん・あそみ)
 3・宿禰(すくね)・・・「大兄(おほえ)」の対語、
             小兄(すくなえ)」の転?
 4・忌寸(いみき)・・・「秦・漢・韓」の帰化人に与えられた
 5・導師(みちのし)・・「天文官(ボクの説?)」
 6・臣(おみ)・・・・・・・・「目付け」で役人監視の役人
             (ここもボクの説)
 7・連(むらじ)・・・・・地方官吏の長官
 8・稲置(いなき・いなぎ)・地方官吏の次官で、徴税官
 と訓読みされているモノである。
 「真人」の漢字を歴史的に見れば示唆する漢字は「女真人」である。「女真人」は「女直人」とも記録され、「金」、「満州」、「後金」、「清朝」を打ち立てた種族である。
 また「韃靼」、「渤海」とも記録されている種族だ。彼等は「ヌルハチ」が「大汗」の時に現在の中国「瀋陽」に都を得、その子孫たちの「汗(世祖)」が中国「明王朝」に万里の長城を超えて浸入し、「明王朝」を滅ぼした「李自成」の僅か数日の「順王朝」を滅ぼして「清王朝」を打ち立てた(甲申年・1664)のだ。
 滅亡した明王朝の「隠元」が「江戸幕府の日本」に亡命してきたのは「甲午年・1654」であった。その4年後の「1657年」に「大日本史」編集の史局が開設されたのだ。「日本書紀」には「渤海国」の使者が何度も「大和王朝」に来ているが、この「渤海国」とは将に「女真人」の国であった。
 この「韃靼=女真人」が何故「女・真人」の「女・直人」の漢字を与えられて、ソウ、中国王朝(明)から呼ばれたのか?・・・私の疑いはこれらの「漢字」にコソあるのだが。
 そしてナゼ、「天武天皇」が「真人」なのか・・・
 ヨコシマな妄想だが、「八姓」制定前の「5・直」が「5・(女)直=女真」であるならば、「壬申の乱」以前の「天武の位」は「直」であった・・・?
 ここに「韃靼疾風録(下巻・1987年発行・中央公論社)」という「司馬遼太郎」氏の小説がある。その「96ページ」から抜粋してみたい。
 ・・・ここでついでながら、満州時代の清史の王室関係の記録についてふれておく。その幾分かは湮滅されてほとんど存在しない。
 湮滅は、清朝第六代の乾隆帝(1711〜99)そのひとによるものであった。・・・
 ・・・かれほど、じぶんこそ、うまれついての大地のぬしだとからりと信じていた明るい男ですら、自分の王統が、
 「夷」
 であることについては憂鬱な感情をもちつづけた。
 ・・・儒教主義者であり、儒教の価値観の至高の座にいるつもりの乾隆として耐えられることではなかった。
 一方に於いて、乾隆は中国の精神文明史の保存者として稀代の事業をした。
 かれは即位するや、国家事業として、古代以来の中国の書物という書物を集め、これを編集させ、分類し、建物をたてて、保存したのである。「四庫全書(シコゼンショ)」がそれであり、それを保存する建物を「四庫全書館」と呼ばせた。・・・
 ・・・そのときに、焚書=(木+木+火+書)もおこなったのである。
  ↓↑
 「キキ(記紀)はヒ(カ)」である、「キキのヒのショ」であるカナ、「モクモクのカのカキ」でアルかな。
  ↓↑
 ・・・明末の書物には、当然、乾隆の同族の女真族の陋穢(ロウワイ)な暮らしを書き、その武装のまずしさなども書かれている。その野蛮人くさい無原則な外交、戦術も書き、女真人の乱暴についても書いている。乾隆は、そういう部分を削らせ、ときには書物そのものも焼かせ、版木まで砕かせた。
 その数は、二千数百種にものぼった。
 ホンタイジ(清王朝の太祖)の『実録』もまた、そういう目に遭った。
 ・・・乾隆は、このホンタイジ記録の中の多くを削除し、入念に湮滅した。
 ・・・ところが、ふしぎなことがおこった。
 これを盗写した者がいたのである。・・・・右の盗写された太祖の『実録』の一部が『太祖実録』、『世祖実録』とともに、江戸期、長崎に入港した清船ではこばれ、清商の手で長崎奉行の唐通事に売られていたのである。
 これによって、この秘本は幕府の手に移った。江戸城内の書庫(紅葉山文庫)に入り、蔵された。
  ↓↑
 と、「司馬遼太郎」氏は記している。色が変化する「もみじ=揉み字=模実字」の「山(やま)」とは、
 サン=纂・簒・竄
 であるな。そして、
  ↓↑
 ・・・さらに数奇がかさなる。それをひそかに筆写した日本のマニアがいたことである。書痴というべきだろうか。その筆写本が、南部藩の永根鉉の手に入った。鉉もまた奇特な人物だった。この人物の手で『実録』の採要が公刊された。このため、この本は日本にのみ残ったことになる。
  ↓↑
 とも「司馬遼太郎」氏は書いているのだ。また
 「漢人」を
 「女真人」は
 「ニカン」・・・→二巻・二間・二冠・二館→似巻・尼姦?
 と呼んだらしいコトも書いている。
 この「韃靼疾風録」には、
 「髪の毛」
 が、いかにその形態によって「人種」の「文明基準(?)」が区別されうるのかを執拗に展開している。中国の基準は「中華思想=儒教=孝行=長髪」である。「親から貰った身体(髪の毛)は傷をつけないことが孝行」であるからだ・・・「身体髪膚、受之父母(孝経)」。ココは「髪の毛」が如何に貴重なものであったか漢和辞典でも調べて知るべきである。ついでに「カミ」の同音異字漢字も・・・
 「漢人=長髪」、
 「女真人=辮髪」、
 「蒙古人=辮髪」、
 「朝鮮人=長髪」、
 「倭人(武士)=さかやき(月代)・ちょんまげ(丁髷)」
 ・・・これは将に分別すべき「古事記・神代」の「カミ」の問題ではないのか・・・定かではないが、古代に於いては「女」が「男」に身を許す時に「カミをオロシタ(切った)」らしい。死に逝く人の形見は「髪」であった。しかも倭人の髪型は「階層・職業身分」によってさらに「分別・区別」されている。倭人に於いて「皇族・公家」、「医者」が「長髪」を守ったのは何故か?・・・元々「ニカン」か、あるいは「ニカン」かぶれか・・・カブレル原因は「漆(うるし・七)」だが・・・
 「女真人」の「漢人」への「辮髪の強制」は支配者への服従のシンボルであり、見かけの「同化」であった。「辮髪」はまさに現実に「命」と引き換えに「長髪」を駆逐、駆除していったのだ。だが「中華思想=儒教」は、「明王朝」を倒し、その「漢人」を含めた「多人種」を支配せねばならない「清王朝」の「辮髪皇帝」にとって、「最高の思想」でなければならなかった。「辮髪(現実)」と「儒教(思想)」は矛盾したのだ。
 辮髪=辛+糸+辛+髪(長+彡+友)
    =カミのヨリワケ
 儒教=人+雨+而+孝+攵
    =シタガウおしえ・ヨワイおしえ・ウルオス訓え
 「実録」の「焚書・廃棄・改竄」・・・今現在、かって中国で記録された書物であるのにもかかわらず、中国に存在せず、この日本に存在するモノは結構ある。例えば弘法大師、空海が将来した「宿曜経二巻」などもそうである。
 それよりも、問題にしたいのが「焚書」という事であり、原本の「改作・改竄」と言うことである。この「乾隆帝の焚書」は「秦の始皇帝」がやった「焚書坑儒」の「焚書」とは質的に違うのだ。「始皇帝」はまさに「儒教本=思想」の「焚書」であり、「儒教者=思想家」の「坑儒」であり、穴埋め、生き埋めであった。
 日本における・・・「古事記」、「日本書紀」の類はどうか・・・たとえ、それが「乾隆帝」のように自らの出自にコンプレックスを有するような「意図的なモノ」ではなくても、同音異字の「漢字使用」と「漢字解釈」の異なった日本的言語状況では「漢文・和文」はあらゆる「解釈」を期待していると言ってイイ。理解がアイマイになる、と言うことだ。ましてや「大和」は「和歌の国」で、「倭人文官の記録」は「和歌の遊び技法を縦横無尽に駆使した教養階級」が書き残したモノである。「焚書」や「改竄」以前に、記録されたモノは「高度な(暗号)記録技術(?)の書物」なのである。
 だが、「古代史」の日本の「支配階級」は、いずれも「乾隆帝」の「心情」と同じモノであったのに違いない。「家系図」である。「出自」である。「ご先祖様」である。
 「系図一巻」を欠落させた「日本書紀・参拾巻」の「再構成」は「桓武天皇」の時代らしく、血筋、家系、門閥等・・・どっちにしても「日本」に渡来して「始原的な国家権力を握った奴」、あるいは「戦国下克上で権力を握った奴」は「火事場泥棒の大親分」でしかない「系図・血筋」が怪しいヤツばかりなのだ。・・・いずれの時代に於いても「武装」した「集団」はその発生した次元から必然的に「盗賊」となり、「海賊」となるのである。「バイキング」は「海賊」だった。イギリス海軍は「海賊」を「貴族(サー)」にしての「海軍」であった。「フランス革命」での「革命軍」はその「理想」と裏腹に「軍需物資」を現地調達する「略奪・強奪軍」であった。「ロシア革命」の立場を忘却した「ソ連軍」は東欧諸国の人々を血で染めたのだ。もちろん「近代国家の税金で傭兵・徴兵」されたあらゆる「諸国の軍隊」は戦争時において「国内外」で、さらに「盗賊」である。「盗賊の頭」とは一体全体、最終的にナニになりうるモノなのか・・・「国家の最高権力者」である。中国の「王朝」はすべからく、ソウであった。多分、世界の東西を問わず「国家」は似たり寄ったりの「盗賊集団」なのデアル・・・
 ↓↑
ーーーーー
 女真(女眞)=女直
 満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南
 の外満州にかけて居住していた満州民族
 聖地は長白山
 10世紀ごろから記録に現れ
 唐時代に入朝した
 靺鞨人の名乗りが、女真の初見・・・
 
 17世紀に「満洲(マンジュ)と改称
 「女真」の漢字
  女真語の民族名「ジュシェン・ジュルチン」の当て字・・・
 「女直」は
  遼興宗の諱の
 「耶律宗真」に含まれる「真」の字を避けた(避諱)
  金朝を滅ぼしたモンゴル帝国、元朝時代の
  漢文資料では「女直」の表記
  モンゴル帝国時代に編纂された
  ペルシア語の歴史書
  『集史』などでも
 「女直」の音写である「jūrcha」と記録・・・
 「女真」は満洲に居住していた
 「黒水靺鞨」と呼ばれた集団
 「遼(契丹)に従い
 「熟女真」=熟女真は黒水靺鞨に服属した
       渤海人で
       渤海は遼(契丹)に滅ぼされた
  と
 「生女真」=粛慎から勿吉以降
       ツングース本来の
       漁労、農耕、養豚、狩猟を生業としていた
       黒水靺鞨
  の二族に分かれていた
ーーーーー
 1115年
 完顔部の
 阿骨打が出て女真の統一
 遼から自立して
 金を建国
 1125年
 靖康の変
 金は、
 遼、北宋を滅ぼし
 中国の北半分を支配
 漢字や契丹文字の影響で
 女真文字をつくった
 中国北半分を支配
 1234年
 モンゴル帝国によって
 金は滅ぼされ
 女真は東北方面(満州)に後退
 女真は
 モンゴル人と漢人に攻撃を受け
 中原から女真の集団は消滅
 故地の女真は
 モンゴル、元に服属
 元代の女真
 満洲から朝鮮半島北部にかけて居住
 元の日本への
 元寇にも女真兵が加わた
 元の滅亡後、
 モンゴルから離れ、
 小集団ごとに
 明に服属
 朝鮮半島では高麗に変わって
 李氏朝鮮が世宗の時代に
 朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐
 平安道、咸鏡道に組み込まれ、
 半島北部からは
 女真人は居なくなった
 15世紀から16世紀
 満洲最南部の朝鮮に接する
 鴨緑江
 豆満江流域
 の女真人たちは、
 李氏朝鮮に反撃
 豆満江南岸地域の争奪を繰り返した
 明国
 女真を部族ごとに
 衛所制によって編成
 部族長に官職と朝貢の権利を与え
 間接統治
 明代後半
 女真は
 建州女直(マンジュ・満洲)5部
 海西女直(フルン)4部
 野人女直部
 からなっていた
 16世紀末
 建州女直の
 ヌルハチはこれら
 13部族を統一
 1616年
 後金を建國
 1635年
 ホンタイジが
 モンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手
 モンゴル高原の
 契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、
 1635年11月22日(天聡九年十月庚寅)
 満洲族に改めさせ
 女真族王朝である
 金の後裔として「後金」と名乗っていたが、
 1636年
 「清」に国号を改めた
 白頭山周辺
 濊・貊・粛慎が居住
 濊貊の勢いが衰え、
 粛慎の流れを汲む
 女真がこの山を聖地とした
 1172年
 金王朝は山に住む神に
 「興国靈応王」の称号
 1193年
 「開天宏聖帝」と改めた・・・
 年表
  994年 高麗が女真を侵略し江東6州を占領
 1107年 高麗の
     尹瓘が女真を侵略し東北9城を築く
 1115年 女真が金王朝)を建国
 1125年 金が遼を滅ぼす
 1126年 金が北宋を滅ぼす
     高麗が金に服属
 1234年 モンゴルが金を滅ぼす。
 1437年 李氏朝鮮が女真を侵略し六鎮を置く
 1443年 李氏朝鮮が女真を侵略し四郡を置く
 1616年 後金建国
 1636年 後金
     清に改名
 ↓↑
ーーーーー
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