mixiユーザー(id:33240433)

2016年08月15日11:17

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終戦記念日に寄せて。

何から書き始めればいいのか難しい。
私のような若造が終戦記念日に筆を寄せるというのもまたある種の勘違いのようにも思う。

例えば、不良の若者たちを思う。
彼らは権力を嫌い、既存の文化を嫌い、しかし彼ら独自の権力と文化で固く拘束され、自縄自縛の感さえある。
彼らは必死に「不良」を演じていて、それに疲れた時に社会に再吸収され、そうでなければ犯罪者にしかなりえない。
同じ視点で見れば、皆、例えば職業人として自らの役目を演じている。
役所に電話してみれば、彼らがまるで自ら望むかのように、小悪で愚鈍や役人役を頑なに演じているように見える。
そして我々も、また、彼らにそういう役を要求している。
この「役割」は、相互に、無意識に、広く深く浸透し、その集大成として社会があるように思う。

太平洋戦争を振り返る時、皆が原爆や空襲の惨禍からの惨めな終戦、という形にとらわれ過ぎているように見える。
報道も何もかもが、あの戦争は悪だったと叫ぶ。
それ自体は真っ白で美しく、文句のつけようのない御旗だが、
その戦争を望んだのは国民であり、それを煽ったメディアがあり、太平洋戦争に至るまで50年に及ぶ戦争の繰り返しまでに目が届いている人は少ない。

そういう、複合的な社会の視点で軍というものを見るとき、軍がいかに重要な国防組織で、外交の一翼を担い、否定しがたい抑止力を持っているとしても、その滑稽なまでの「役割と文化を演じる組織」という風体もまた、否定しきれない。
彼らの持つ独自の命令体系や、独特の価値観、文化、これは不良たちのそれと体系的に同じなのだ。
彼らはその存在意義ゆえに、権限と戦力を拡大し続ければ、必ず戦争に至るように自縄自縛されている。彼らには個別の意思はないが、歴史の必然としてそうなる運命にあるのだ、といえば、多少は受け入れやすいか。

その軍を支えるのは、国民である。国民の支持のない軍事行動は長くは続かない。軍事クーデターさえも、その発生時には国民が支持していることが多いのだ。
だから、国民は安直な感情だけで動いてはならない。賢く、冷静であり、守るべきものとそうでないものをはっきりと見極めなければならないのだ。
実は、軍も政治家も、本当に大切なものなど見極めきれないのである。国民の支持がなければ生存しえない彼らは、よく言えば、国民の信を得られる決定しかできないし、悪く言えば国民の顔色を見ながらしか生きられない。普段あれほど偉そうであっても、だ。

太平洋戦前、60%を超える国民が開戦を支持した、と当時の朝日新聞にある。
それが新聞による虚偽の可能性もあり、今となっては真偽はわからない。
事実として残るのは、それに至るまでの数十年に、メディアが散々に国民を煽ったという記録や、国民もまた暴力を頼って感情を表現してきたという記録があることだけだ。
こう順を追って考えていくと、国民の担う役割というものが、いかに大きなものかがわかるはずだ。

戦争や外交や経済や政治というものが、今の国民には遠すぎる。
ほんわかと生きているその辺の人々だけでなく、mixiやfacebookや2chで侃侃諤諤の政治活動をしている人にしても、ほとんどは言葉遊びの領域にしか達していないのではないか。
相手を否定するために弁舌を尽くしても、意味がない。討論は、必ず戦争に至る道だと言えよう。
そこに自らの政治的な意図と無関係に、真実を見たいという願望がなければ、議論にはなりえない。

何かを為すとする。その結果は、行為によって定まっているのか、あるいは人知を超えた偶然の作用の結果そうなるのか。いわゆる偶然論と決定論と呼ばれる、哲学的な命題である。
どちらが正しいと思うかは人それぞれだが、別の命題をもって答えれば、観測できない限り、どちらも同じことである。結果が決まっていても、決まっていなくても、私たちにはそれが善を為すものだと信じて為すしかないのだ。
終戦の記念日に当たって、何かを世間に訴えるとすれば、より深く「善」を考えることだとしか言えない。
その善が「己こそ正しい」という結論を得るのであれば、私たちはまた戦争しなければならないだろう。

■終戦記念日でさえも…「終戦記念番組」がほぼない夏に
(しらべぇ - 08月15日 08:31)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=202&from=diary&id=4143524
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